14 先約と、
白い髪がアルルノフの前に落ちた。櫛目の通った綺麗な髪だ。
アルルノフは気温に関係なく毎日着るように言われていた白衣が床に落ちていることに今気がついた。
白衣に隠されていた教授の体は薄く、筋肉もついていない。あたりに立ち込める薬草の匂いとは違う花の匂いが強くなった。重花弁の花の匂いだ。アルルノフはその香りが教授からしているのだと初めて意識した。
今回の提案をするにあたり教授の生活を調査したが、その時にも感じた匂いだった。教授は研究所の食堂で安価な食事をとり、購買に寄って少額の買い物をする。それ以外は研究に宛て、文字通りその身を捧げていた。贅沢に暮らしていないのは明らかだった。
しかし目の前にいる教授は――――身なりが乱れている訳ではないが、普段の教授とはどこか違う。ただのリーリート・ロラインなのだ。この認識はおかしい、アルルノフは否定する。自分の感覚が例外なく間違ってると感じるのに、完全に否定することができなかった。知っている――けれど知らない人。それが自分に欠けている視点というものだろうか、アルルノフはシャルルを一度だけ見た。
リーリートはアルルノフの手から巻紙を取ると、丸めて筒状に戻して机に置いやった。一連の動きを追いかけていたアルルノフは再度教授と視線を合わせた。指先に誘導されたと遅れて気づく。
「もしも空が落ちてきたら、私は喜んで支柱となる。君は私を支えようとも背負おうともするな」
彼女は息を吸い、ゆっくりと吐いた。
「自ずから囚徒にならないでくれ…アルル、君は君を追うんだ」
リーリートの声は大きくなかったが、アルルノフの心に響いた。
国立理力研究所の総括上席特別教授。肩書きに引けを取らない実力の持ち主。大聖堂の高台に並んだ二つの椅子の片一方は、彼女のために空座になっていると言う者もいる。
しかしそれは上辺なのだ。アルルノフは白衣を脱いだ彼女を知らないように、多面的に捉える事が出来ていない。アルルノフは何度も言葉を反芻し、己の浅はかさを悔いた。
未熟な研究員が口にするには、過ぎたること。
私は前提から間違っていた――
「けれど無駄ではない」
思考を掬いとる教授の声にアルルノフは大きく目を見開いた。
「私の一面は確かに狂気だ。それを気遣い、他者に協力を仰いだことは評価できる。多くの研究は一人では完結しない」
「……教授はお独りで完結していらっしゃると思いますが」
「馬鹿を言うな、自覚が無いのか? 私は君たちを頼り、多くを助けられている。君は命じられた業務を遂行しているだけだと考えているだろうが、君が日々処理しているものは私の業務だったものだ。君も自分を勘定に入れない性質だな、人の事は言えんぞ。でなければ私の食事を作り運動も補佐して、常に行動を共にするようなことは言い出さない」
「シャルルさんはそうされていますので、効率的な対応だと判断しました」
「この男は私のものだから構わない。君は違う」
「そうしていただくにはどういった申請を行えばよろしいでしょうか」
「期待外れの返しだ」
「当然そう思われるでしょう。まずは現在の業務を最速でこなせるよう努めます。研究に傾注し、更なる成果をあげてみせます」
鋭い視線にもアルルノフは負けじと立ち向かう。
「その頃には申請を受諾していただけるようになるはずです」
「私が付き合うまでもない」
「連敗はしない主義です」
リーリートは青年の双眸から明確な道筋を読み取った。自分の要望も、リーリートの期待も、国への献身もすべて獲りきるつもりなのだと生意気にも瞳が伝えている。向こう見ずな者は嫌いだが、今の彼は泰然自若としているように見えた。
幸か不幸か、アルルノフの耳は教授が「ほぅ」と吐いた音を聴いた。
「わかった、待っていよう」
「必ず」
やりとりを少し離れて眺めていたシャルルはアルルノフが作業に戻ると告げて視界から消えても、長椅子に身を沈めながら考えに耽っていた。
この研究施設に属する研究員たちは【集団】という枠にとらわれない者が多い。それはみな己の頭脳に誇りを持ち、独自の世界を築いているからだ。孤独を愛する者が多い、そしてその孤独はシャルルのそれとは異なる。
眼前で繰り広げられたやりとりは入り込んではいけない雰囲気があった。彼がリーリートの弟子となって季節は一巡りしているというのに、自分は彼のように積み上げられるものもなく、世界を広げる事もしていない。シャルルは体の向きを変え、腕を組む。
「さて、君は少し眠りなさい」
ぱちんと両頬が挟まれたる。目の前に白髪の美人が立っていた。
「君は起きるんだろう? まだ食堂は開いていないし、腹が空いているなら何か作るが」
「遠慮しておく。固形物は入りそうにない」
思わず顔を顰めると、苦笑が返された。やはり本調子ではないのだ。これだから口ばかり達者な者は困る。
薄い腰を抱きよせる。シャルルは強く握りしめそうになる自分を抑えた。
「労わらせてくれ…」
「ならそのまま、動かないで」
頭を抱き寄せられて、ゆっくりと髪を梳かれる。指先が地肌に触れるほど奥まで掴まれ、必然的に彼女の胸に頭が寄る。とくりと心音が聴こえて、目を閉じた。
「私の超過勤務を問題にされるとは思いもよらなかったよ。洗髪剤といい、他者からどう映っているのか興味がでてきた」
「……気をつけた方がいい。後ろの男が論文を書き始める」
「アルル、今のは忘れなさい」
少し離れた場所から「はい」と返事。案の定青年の耳に入っていたことにリーリートが頭を抱えたまま笑う。シャルルが少し体を離すと腕は抵抗もなく解かれた。
「超過しているなら君もそうだろう、シャルル。どうして私だけ対象になる?」
「シャルルさんは体の作りが教授と異なります。同じ勤務時間を過ごされても余力がおありです」
じょうろを持ったアルルノフが通りすがりに答えた。
教授の視線が刺さる気配がする。見なくてもわかるが、多分可哀想で可愛いだろう。我慢する気もなく見上げると、頬を膨らませて不満を訴えている顔がそこにある。似合ってるなと、あさってな感想を浮かべていると頬をつねられた。
リーリートは台座の下からじょうろを取り出すと、別の台座の観察に向かった。通常であれば手伝わないが、彼の業務時間を調整をするのだろう。手や目を動かしながら師弟の会話は続く。
「不等だ」
「先に比較したのは教授です。教授は連続勤務の影響が外見上に疲労として表れていますがシャルルさんは通常と変わりありません。さらに教授は身体的性能の低下も見られます。また昨年の教授の――」
「アルル、伝わっているからその辺りで。教授の機嫌を損ねたくない」
「はい。わかりました、ご機嫌を損ねるのは本意ではありません。御助言感謝いたします」
「遅い」
シャルルがリーリートの横に並ぶ。彼女はじょうろの口をシャルルに向けて水を掛けようとした。男は眉をあげて驚くと、すぐにゆるりと目を細めた。細い腰に腕が回る。リーリートは水を掛けなかった。




