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リリィ 思いつくままに書きとめたささやかな覚書と一切の崩壊。無力な愛、ひとつの不幸、ただ愛を愛とだけ欲したある価値の概念  作者: 夜行(やこう)


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139 杯の中からこぼれるものと、

「上級護衛官殿、ヴァンダールとは懇意にしている。案ずるには及ばない」


戯れに肩書きを呼ぶと、ほんのりと潤う唇が開く。上目がどこか責めたるようで、彼女は心に浮かべていた言葉をありのままに滑らせた。


「……お言葉ですが、遠慮の要らない親しい付き合いというのは、憎悪の間柄に適する言葉ではございません」

「そうか」と、感銘を受けたという顔で酒杯を口に運ぶ。

「そうです」と、頬を膨らませたあと、彼女はぷっと笑った。


外聞の悪いことを口にしても周囲に咎める耳はなく、他人を外に置いて、自分の心を惜しげもなく開く柔和さには一種の甘美がある。人目のあるところでは見せぬ内側が、果実酒によって鎖を断ち切られて表れている。彼女は目尻の端に優しさを乗せ、どこを見るでもなく微笑している。湯に全身を浸けているいるような感覚が、大主教と教徒という隔たりを隅に追いやっていく。


「たかが老身に身を砕くな。可笑しなものよ」

「いいえ、私は真剣です……御身は何より尊いものです。それをわかっていただきたいだけなのに……でも、…貴方は容易にあのような弱者に優しさを分け与えてしまわれる…それは余りに歯がゆい…」

「弱者か」


ホルミスは遠く旧市街の方をちらと見た。世を恨む人の呪いがあえなく黒に融ける地を。あの場を離れたあと、理力を用いた小競り合いがあった。偵知の者の前で、"聖職者"は"聖職者"の手により捕えられたという。彼は"逃れたかった"のだろう。しかし逃避の経験がない者の甘い想定はいつも成功しない。


「名と経緯は聞き及んでおります。あの教会を訪問すると口にされた時、私達護衛官はいつも通り司祭や他の聖職者たちの調査をおこないました。彼らは都市の儀式に表立って出ることはなく、教区でおこなう結婚、洗礼、葬式などの、おりにふれて集う儀式も極端に少ない。にも関わらず、市民から提供された援助は小教区全体を大きく上回る。教会は地縁的ですから、その程度では範疇を越えません。例えどれほど薄暗かろうと他領地のこと。共同責任を負う必要も、追及する権限も私にはない……わかっておりますが、胸騒ぎがありました。司祭と対面した時、……あの男を取り巻く環境は他の教会とは異なる密度があった。他人を避けながら、まるで地獄をおのずから抱きこむ目がいやに気に障る……」

「彼だけではない。この地に住む者は、悲劇という病の後遺症にかかっている。街路中ところ狭しと翻る苦痛の記憶が、彼らの生きる糧なのだ。それを治めきるヴァンダールは見事な役者だよ。劇場主として自らも舞台に立って、火のついた蝋燭を観客に押し付ける。恨みがましく、心ではあざ笑って。同族だ、考えていることがわかる」


メルカは立ち上がって柵に手をついた。頬を海風が渡っていく。彼女が振り返った時、その純粋な一己の瞳はホルミスの中に踏み込んだ。


「私はお尋ねしました。貴方は興味がないと答えた。次に同じ口が、あの男と二人きりにするように言った」


自分はいま見定められているのだとホルミスは思った。手摺に乗ったままの指先を見ると、震えてはいなかった。


「訊ねたのは私ではない、君だ。そう聞かずにはいられなかったのもまた、君だ。あの男の身体は、虫が群がり、食い荒らされる定めの花蜜だとわかったのだろう」

「であれば」

「努力もせず、まして望みも口にしない。ただ愛されるのを待つ男がそれほどまでに憎いか」

「あれは心で離しはしません。散らされずにいたのは初めてでしょう。葉にのった一滴の露に、怨念を兆すほどの意趣をうかがうことになりましょう」

「解放を迎え、羽ばたくか、さらに淫を求めるかは私の知るところではない」


メルカは瞬間的に寄る辺がなくなるのを感じた。あの男のことなどどうでもいい。そして目の前の男の事も。思考は過去に遡り、一人の男の顔を映した。封じていたはずの情感に、メルカは何もかも拭い去られてしまいそうになった。先んじて手摺を叩いた。痛みは、意志を挫折させたが、本質を認めざるを得なかったことも明らかだった。

大主教は刃を食んだように口を真横に結んだまま、欺瞞を貫く視線を容赦なく送る。メルカはこれから先に言葉は必要がないと本能的に察する。しかし、一度燃え上がった炎を消し止めることができず、目元に集まる熱に操られ、ひそかに蓄えていた言葉を吐き出した。


「貴方は筋書きを書き変えるちからをお持ちなのに、どうして端役を徹底なされるのです。いつも欲しい言葉はおっしゃってくれない。手離すつもりなら、最初から、最初から………」


そこまで言ってメルカは黙り込んだ。背筋に走る戦慄が、彼女の顔から血の気を奪い去る。耐え難い思いを堰き止めるようにすぼめられた眉が、ゆっくりと青髪の中に沈んでいく。

その光景はホルミスを苦しめた。息の詰まりそうな弱弱しい声が、ただ一言発せられる。


「……君は何も悪くない」


視線を横滑りさせて、彼女は前も視ずに立ち去った。






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