138 夜の山と、
「メルカ。調査が済んでいるが対処はしていないのだろう? ヴァンダールの顔を潰しかねない厄介事だ。このまま粗悪品の流通を見過ごせば購入者に損害を与えることになる。ならば、悪事を先んじて知ったホルミスが責任をもって飲み干してやろうではないか。アラデル、市場へ。メルカ、先導を」
「ほ、本当に行かれるのですか…!? 晩餐会のご予定がございますのに、本当はそちらの方を不参したいだけなのでは……? 閣下!」
「メルカ、アラデルを困らせてはいけない。先導を」
「私も困っています! もう!」
龍下のヴァンダール来市を祝う、全市を挙げての表敬の儀式が各所で執り行われている。一定のありかたを見せる式もあれば、口上と拍手のみで終わる簡素なものや、合唱をする会もある。感情の発露は人によって様々な形があるように、愛情がどのように変形していようと、ヴァンダールという土壌に舞い降りる幸福には相違が無い。
とりわけ中央広場は一際鮮麗を極め、複数の商店のほかに装飾芸術のつまった建物や、階段で結ばれた回廊、彫像を濡らす泉水など人々がくつろぎ、楽しむための凝った空間構成が展開されている。さらに歓迎の花や果樹は目を楽しませ、訪問者は計画的な美に圧倒される。建築物と庭園の美しい調和を嘲弄する者はいないだろう。
垣根に縁どられた水路は斜面を階段状に落ちていき、広場の中央で三段の噴水となってふきだしている。陽光の反射する水面には小鳥が憩いにやってくる。日が落ちれば、丸灯の淡い光がきら星のごとく浮かび上がる。子供の姿は消え、箍の外れた笑い声が聞こえ始める。即ち、明けるのが惜しいほどの夜の始まりだ。
喧騒の裏手、角柱と背の低い樹木が交互に立つ気取った馬留めに白馬が並ぶ。
主を静かに待つ鉄馬車を背に、一人の白服が仲間の体を丁寧に撫でて労っていた。ホルミスからの長旅は疲れたかと、毛並みを撫でながら聞くと、そうでもないと黒い瞳が答えたような気がした。鼻を掻いてやると、ねだるように頭を擦りつけられる。彼らと言葉を交わすことができないが、目をみていると気持ちがわかる。そばだつ耳も、豊かに感情を表現しており、舌の音が水を跳ねるさまを愛おしく見守る。
砂利を踏む音をきき、飼葉を抱えた男が振り返ると、酒瓶を持った男女が歩いてくるのが見えた。男は笑顔で片手をあげ、おかえりと口にした。いずれも故郷で待つ家族などいない者たちだった。土産を買う相手もおらず、店を少し回って特に心惹かれるものもなかった二人は、手頃な値段の果実酒を買って馬留めに戻ることにした。酒瓶をふると、青い瓶のなかで黒い液体が誘うように揺れる。杯もないため回し飲みすることにはなるが、三人はいつだって悔恨を知らない。
酒瓶が夜空に掲げられる。男がにやりと笑って「大主教様に」と明るく言うと、二人は「大主教様に」「ホルミスさまに」と笑みを返した。
ホルミスは商会の最上階から張り出した天台から、光を集める十字の道を見下ろしている。広場と目抜き通りは日が落ちても人通りが多く、それ以外の街路は灯も少ないため、いまだ夜に抗う場所だけがよく見えていた。
階下では、たらふく酒を飲んだ男達が場所を変えての仕切り直しをおこなっている。件の不正販売の店ははす向かいにあるが、あたかも無知を装った一団に樽を空にされるほど飲み食いされて、すでに店じまいしている。去り際にメルカが何か耳打ちし、やがて肩にしめやかに手を乗せていたので、主人は息が詰まるような、または実際詰まったかも知れないが、明日になって経営者の首がすげかわったとしても、周囲は残煙を避けるだけだろう。
膨れた腹帯をたたく男達はようやく体が温まったところだったので、もう一軒をねだった。本格的に酔いが始まる前に宿舎に戻そうと号令を出すメルカと、助けをこう視線に挟まれていると、一人の老人が声を掛けてきた。
男ははじめに名乗り、商会に伝手がある者だといった。正しい肩書きでないことは明らかではあったが、不祥事を把握しており、謝罪したいので自分の邸にきて欲しいという。ホルミスはすぐに頷く。老人の落胆には及ばない。承諾する以外の答えは無かった。
男が案内したのは、広場の一等地に大きく居を構える館だった。曲線を描く梁をくぐると煌びやかな内装が目に飛び込み、香辛料のたまらない匂いが鼻をくすぐる。男達はすぐさま歓喜し、席につく。腕に白布をかけた従僕たちが老人に一礼して、彼が頷くだけで料理や酒が運ばれてきた。従者たちを一階に置き、ホルミスは老人の後ろをついて階段をあがった。
同行すると言ってきかないメルカは、昇降機がないと不満を顔に出していたが、案内された屋上からの眺めに言葉を失う。星空のひさしの下に、酒と果実が用意されている。控える主人に礼を返すと、彼はホルミスの出であることを口にした。故あってあの地を離れなければならなかったが、心はいつでも貴方と共にあると告げられ、後ろにいたメルカが襟を正した。言葉少なに深く腰を折る姿に、都市で一等美しいものを眺めている気さえする。
少しの歓談のあと、ホルミスはヴァンダールの小さな頂の上で、杯をもつ手を思い出に翳していた。
メルカの視線が頬に貼りつく。




