137 男の知らぬ半面と、
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継ぎ接ぎの家屋が並ぶ旧市街を、鉄装飾で彩られた剛健な馬車が通り過ぎる。
石畳をこする馬蹄と車輪の音に、水路の端で寝ていた犬の耳がそばだつ。前脚を突きだし、呻り声をあげて夕暮れの乱入者を威嚇するが、街と周囲の展望ととけ込まない厳格な雰囲気をまとう馬車と帯同する馬の一睨みで、犬の尻尾は垂れ下がった。その犬は人が通り過ぎる時に必ず吠えたが、いまだ惨禍の記憶を抱える旧市街の番人として愛されていた。
馬車がすれ違うのがやっとという巷路だが、そのような然るべき相手は滅多に旧市街を訪れることはない。彫刻祭壇という遺構を地下に抱くカタリナ教会は旧市街の最奥にあり、俗世間から隔離されるように静寂境のなかにある。
かつて治療院であり、また死の看取り場でもあった場所はヴァンダールという都市の始まりの地でもあった。木柵といくつかの住居に囲まれた小さな教会。そこから時代とともに大都市に萌芽した起点は、他の始まりの地と同じように明るくゆとりのある笑みに溢れた地だった。今は旧市街全体が一人の男を捕える牢獄にみえる。あれが今頃砲弾となって炸裂しているか、これまで通りの殉難によって再び道を閉ざされるかは、彼が自分の命に適合する意志があるか否かにかかっている。
二つの塔門をくぐりようやく別区域にまたぐと、迫害の時代を抜けたように街並みは活気づく。管轄区域であるホルミスとは色の異なる騒々しい街を横目に、アーデルハイト・ホルミスは並走する白馬の手綱をひく女に目を向けた。
衣服の色とは異なる純然としたホルミス紋章を右胸の上につけた女は、馬車の道行を妨げる者がいないか馬上から広い視界を作っている。彼女の教務はホルミス一団の護衛である為、喧騒と娯楽の共演にはひとかけらの興味もない。痩せているが精悍な顔つきで、上肢は鉄の胸当てをつけ、左右一対の細紐で肩から吊り下げる筒衣の裾は深い切れ込みが入り、すらりと伸びた肉質の硬い太腿を馬体に密着させいる。馬の背に垂直に座る姿は堂に入っており、彼女を見つめる市民の口は大抵開いている。
「閣下、何かご用命であれば拝します」
忠誠に刻印された横顔がこちらを向く。彼女は常に自分の長所を先のために使おうとする。規律の乱れに厳しく、他人も自分同様に律しなければ苛立ちを覚える変わり者だが、誰しも奇妙なところは持ち得ているという点で、はっきりいってしまえば愛らしい女だった。
「降りそうで中々降らないな。セミフォンテが気に病んでいないといいが」
肌に湿気を感じるものの、灰の薄雲は都市の上から遠ざかったようだ。
彼女はたちまち顎をあげて顔をそむける。耳輪が揺れて単純な美しい音が鳴った。
「病む方が不遜と云うのです」
苦々しく歪めた口をとがらせて、幼い顔を見せている事に彼女は気づいていない。
「同じ南部の都市といえど、立地も気候もホルミス区域の気象予報とは訳が違います。いくら前回大会の時から海上風の研究を続けているといえど、それだけでは難事を一挙に解決できるわけがありません。予報の精度をあげるには、もっと多くの統計や基礎事実が必要だと本人が一番理解しているでしょう。そうではなくては困ります。あいつは弱気でいけません。あいつは……閣下! セミフォンテの事などにお時間を割くのはおやめください!」
「しかし鬱々とした優美な横顔を、君が柱の影から黙して見つめているのをよく見るが、それは時間を割いているわけではないのかな?」
カッと赤い果実のように熟れた顔から「閣下!」と抗議されるも、随行する他の者からやいのやいの揶揄いの口上が述べられ、女の日に焼けた手が「黙っていろ!」と空を切る。
「今頃宿舎で精度検証に励んでいることだろう。何か労いをしようと思うがアラデル、果実酒を買いたい。どこかの店で……確か市場に専用店がでていると案内されたが道はわかるか」
御者の背中側についた小窓を押し上げて覗きこむと、アラデルの首がかすかに後ろを向いた。手綱を握る両手はそのままに、「無論」と簡潔な返答が馬蹄の音とまじわって耳に届く。
「アラデルさん、お待ちください」―――馬の鼻を差し入れて、片手をあげる。
「ヴァンダール側より案内のあった中央広場の店ですが、外向けの高額商品か薄めた酒が出されると事前調査が済んでおります。閣下、お手を煩わせずともあいつには私が喝を入れておきます。どうぞこのまま宿舎にお戻りください。次の予定もございます」
「明日からは更に忙しくなる。土産を持って帰りたい者もいるのではないか? 高額でも構わない。多くの教会人が占拠し、住民は迷惑していることだろう。心付けに希望額を払ってやるといい。私の資産はお前たちのものでもある。好きになさい」
「ホルミス様が奢ってくださる!」「好きなだけ!」「なんでも!?」馬上を伝播していく雄叫び―――突き上げ、さっと隠される渾身の右手。馬も心なしか前脚を挙げて弾むようだ。姿が硝子に反射して、ホルミスは笑む口元に手をあてて、ほんの少し肩を揺らした。
横ではまなじりをつり上げた女が「待て、お前たちにわかに騒ぐな。まだ良いとは言っていない!」と鞍から尻を上げている。前後に熱心に目を走らせる真剣な顔に、ホルミスは男たちの戯れに遊ばれる愛い女を呼んだ。
 




