136 孤独の暁と、
「放って置くと君はすぐに病気にかかる」
ハウエルの心にうずまいていた焦燥は一声で取り鎮められた。顔を上げるも男の姿は見えない。扉の窓と窓掛けが微かに開いている。あらゆるものに不感になっていた男は薄い扉の向こうに熱中していた。それは傍からみれば不格好なものであったが、生を認めなかった男が初めて持った追求だった。
「私の言葉を覚えているか?」
「……省みろとおっしゃった」
「忘れるな――心からの歓待、感謝する」
天板を叩く一打のもと、御者が鞭を振り上げる。項革から垂れ下がる房飾りを揺らし、馬車と馬上の従者たちが遠ざかる。小石が舞い、砂埃が立ったがハウエルは動かなかった。
「……………ハウエル様」
ハウエルは目を閉じた。ほんの少しではあるが、彼は長年付き従う老いた従者を相手にしなかった。沿道の風景は元に戻り、陰気な細い道が横たわる。末枯れた古木を忌々しく感じていたことも遥か遠く、今は枝に憩う小鳥が目に入る。
背後には数名の男達の気配があった。地下室でのやり取りはどのような説明をすればいいのか見当もつかない。喉を傷めるほどあげた声などは特に誰の耳にも届かぬことを祈ったが、何かあったか断片でも語ることは出来かねた。
しばらく考えて、気取られぬように息を吐き、ハウエルは司祭の顔を戻してから振り返った。
「今日は幾らか予定外の対応をせねばならなかったが、無事大主教をお送りできて何よりだ。みな、御苦労であった。晩餐の時間が迫っている。準備に支障はでていないだろうか、そうだ、地下の蝋燭を付けたままにしてしまった。直ぐに清めねば」
「……お待ちください」
過ぎ去ろうとしたハウエルの前にペトリが立つ。道を塞ぐ不作法な振舞いに一瞬目を細めたハウエルだったが、直ぐに驚きに目を見開く。周囲にいた教職人が次々に跪き、感嘆しながら頭を下げている。ペトリも、皮のあまった手で顔を覆ったかと思えば、顎を涙で濡らし始めた。
「ああ、ハウエル様、ハウエル様がまたお目覚めになられた」
老従者の声を皮切りに、復唱が始まった。怖ろしくなってハウエルは後退った。石畳に躓き、転倒してしたたか尻を打ったハウエルにペトリが駆け寄る。たかが転んだことでさえ、これほどの恐怖は無いと戦慄するような顔をしている。
「早くお立ち下さい。しるしが汚れます。しるしが汚れます」
しわがれた声が動転する体に浴びせかけられる。異様な熱望に身を引いていると、肩を掴まれ、指の腹で肉裏の骨ごと掴まれる。老いた匂いが露骨になり、拒絶のあまり首を左右に振る。しかしペトリの手は振りほどけず、離せと言っても聞かなかった。言葉が通じぬ恐怖が全身をめぐった時、背後から現れた白い手が素早くペトリの手を叩きつけた。
ペトリは手を抑え転倒し、それでも口に感嘆と嘆願を注ぎ込んでいる。
ハウエルの目は、顔の真横に浮きあがる白い手に釘付けとなっていた。
甚だしく抵抗した手は、美しい鳥の翼の形をしていた。地下の動転の中で見た翼を間近に眺め、夢ではないことをようやく悟った。
おそるおそる首筋に指を差し入れると、肩と首の合間に筋のかたまりのような盛り上がりがある。その筋は柔らかい毛に覆われ、下へ下へと続いていく。下方に撫でれば心地いい肌触りを伝え、逆さに撫でれば美しい羽根がけば立つ。怖ろしいのは、羽根を触っていると自分の肌に触れているという感覚があったことだ。
(羽根? ―――羽根が、? 羽根が、生えて、そんな……私に?)
混乱に操られた脳は、男の声を蘇らせた。
『君という可哀想な存在は他者に愉悦を与えるだけで、寄り添ってくれる者などいなかった筈だ。君は他者の自涜行為の道具だ。神に命を救っていただいたという粉飾がなければ、見向きもされない片端者、それが君だ』
―――――他者の自涜行為の道具
言葉の意味を真に理解したとき、ハウエルの全身に激しい拒絶が雷撃のごとく駆け抜けた。目の前の者たちに、"また"道具にされてしまうという恐怖が心に立ち込める。
(逃げなければ……)
その感覚は一息にハウエルの脳髄を開墾した。これまで活用すらされていなかった器官が息をふき返し、躍動を待ち望んでいた血潮がひとところから噴出していく。薄明のもと立ち上がったハウエルは石畳を穿って駆け出した。教会から必ず遠ざからねばならない。その想いだけが肉体を動かした。
「ハウエルッ!!」
否認を告げる叫び声が、暁闇と見紛う暗闇を抜ける男を捉える。
すでに人気のない裏通りへの角を曲がっていたハウエルは、古木を過ぎて長い石段へ、そこから逃げる道をさらに考えていた。
「溺れよ!」
老熟した声に命じるままに地面に亀裂が入る。床はさらに細かく分離し、石と石の間に隙間が広がっていく。石畳の上体を支える地面がたわみ、陥没した。石は次々に穴に飲み込まれ、立ち止まったハウエルの背にペトリが迫った。
亀裂はハウエルを飲み込むまで広がり、とうとう左右の家屋の玄関口までも落とす。市民の悲鳴がハウエルとペトリの間に走った。




