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リリィ 思いつくままに書きとめたささやかな覚書と一切の崩壊。無力な愛、ひとつの不幸、ただ愛を愛とだけ欲したある価値の概念  作者: 夜行(やこう)


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135 身勝手な陶酔と、

寄りかからねば一人で立つこともままならない事実と疲労が、鎮静材料となっていた。これほど奇異で不快な男もいないだろう。自分で考えるのも虚しいが、いかんともしがたい事実だ。


「……どうして…私は死にたいと思うのに生きているのだろう…」

「…………」

「…こんなもの、癇癪だ…………」


最早ハウエルの目には過去の断面一つのぞく事はできない。家族の姿はもう二度と瞼に映らない。


「司祭、もしも何者かが君の規定する死を変えたと思うなら、それを成したのは私ではない。死は肉体に一度しか訪れない。従って君に死は訪れていない」


研ぎ澄まされた感覚をもって聞いていた。


「はじめ人は、人と異なる君の姿を敬愛しただろう。境界明瞭な傷痕は見るに堪えず、君は不憫に思われ、苦痛を共に味わうように顔をしかめる愚者の列を見た。彼らに祈り、慰められて、ひと時喜びもしたな? しかし並行して奇怪と警句を態度で示されていることにも君は気づいたはずだ。ただれた肌をみる彼らの目が安堵にまみれていたことを。ほとんど残酷な交流のなかに、良知の光を見せる者など居はしなかった。そうだろう? 君という可哀想な存在は他者に愉悦を与えるだけで、寄り添ってくれる者などいなかった筈だ。そういうものだよ。その反応が正しい。君は他者の自涜行為の道具だ。神に命を救っていただいたという粉飾がなければ、見向きもされない片端者、それが君だ。君はその苦難を乗り越えようとしなかった。過剰に視線をおそれるのは、心をこれ以上壊されないようにという自衛だ。しかしその場しのぎは簡単に綻び、いつしか君は敬仰される自分と、生まじめな自分を分離させ、哀れみを受ける自分を見殺しにし始めた。炎に焼かれている自分を見ているのはさぞ心地よかっただろう。先んじて自らの心を終わらせれば傷つくことが無いのだから」


言葉が頭にまつわって離れない。目の前の男はハウエルの人生を先取し、すなわち平俗で怠惰な者として、身に積もる重層的な感情を破壊しつくしていく。皺がよるほど祭服を強く握った手を邪険にすることもなく、大主教は静かにハウエルという物語を語り終わろうとしている。血潮が沸騰する。


「私は必要な手続きを済ませた。ここを訪れたのは芸術を評論するためでも、また歴史を採訪するためでもない。君も神像もおよそ主旨から外れたものだよ。再訪することはないだろう」


差し出した首が皿ごと返却される。ハウエルは震えていた。灯火のなかにしらじらと浮く大主教の顔に視線を昇らせるが、つけ込む隙もないほどの冷たさを示されるばかりだった。


「……君のように不幸でいたがる者は多い。君は特別ではない。同情され喝采され、血涙を呑みながらも現実を見ようとしない君が、私の目から逃れられると思っていたなら、手抜かりだったな」


服を掴む手を引きはがし、大主教は階段へ背を返した。ハウエルは手をだらんと垂らしたまま、大主教の胸の中で伏せていた顔を歪める。


「……醜さを曝した私に責があると?」


「そうだ」と返されると予想していた頭に、「病気だな」と嘲りが返った。それでもハウエルは反駁しなかった。


「君は自分の主張が間違っていると考えたことがないようだが、柔軟性もないな。そうして錯乱の境地に達するほど昂る気力があるなら、理解されないことをなじる前に己を省みなさい」


声色から初めて堅苦しさが抜けた気がした。言葉は直截で、口調は躾の身につかない子供を卑しめるようではあった。しかしそれが元来生まじめなハウエルの、今迄着ていた毒を消毒せしめて裸になった心には温かさがこもっているように感じられた。

犬が飼い主を追うように、「もうお帰りになるのですか?」と、遠吠えで気を引くように追いかける。


人の気配の無い外陣に闊達な足音を響かせ、通り路をゆく大主教が扉に近づく。示し合わせたように影から現れた従僕が扉を押し開いた。歩みを緩めることなく外へ出た男を馬車が待っている。

ハウエルは教会の常夜灯の下で足を止めるほかなかった。通りで立待していた男達は二人の間に雪崩れ込み、無駄な動きひとつなく主に献身をうやうやしく捧げる。二列横隊をなして馬車の前後に騎馬列ができあがり、御者も馬も、主の号令ひとつで動き出すだろう。


蹄が土を蹴り、いななきが暮れ時に赤み差す通りを占拠する。その場に異物として立ち会う羞恥がハウエルの視線を土に落とした。司祭という職位をもってして立ち向かう覚悟は、地下室で貫かれている。乱れた身なりを隠すことを後から思い出し、襟ぐりをたぐり寄せる。すまし顔をしている従者たちの幻想の視線が全身に刺さる気がした。主客を見送るという大事を前に呼吸すらままならなくなった。馬車の中の男がいる限り、司祭に戻ることはできない。






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