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リリィ 思いつくままに書きとめたささやかな覚書と一切の崩壊。無力な愛、ひとつの不幸、ただ愛を愛とだけ欲したある価値の概念  作者: 夜行(やこう)


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134/419

134 指の背の熱と、

「こちらの祭壇画は……十八枚の絵画によって構成、されて………います。下段では都市を襲う悪魔と、それらを退けて復興する時流が描かれ……上段の九枚はヴァンダール大主教を始めとした治療にあたった教会人、治療場所を提供した市民、占者………病にどのように立ち向かったか描かれています」


祭壇画を見つめる大主教は、最初の一瞥以来ハウエルを見もしなかった。

ハウエルはこれ以上拙い説明を付け加える気は起きず、影に寄りかかるように俯いてしまう。男を睨みつけても非難と受け取られることはなく、男から与えられるのを待つほかないという現状が耐え難く思えた。未だ麻痺する心で歯噛みする。


逃げるように室内を眺めわたすと、蝋の燃ゆる匂いが足先を抜けて全身に達した。極度の疲労に包まれた体は気怠く、つくづく見れば屍のようだった。

カタリナに。地下室に。燃えた神像に。似合いの男だった。


(お前は何を見ている?)


ハウエルは闇の中に自問する。


(お前は暗闇の中に明けることのない夜を見ていた。此処にはいつも無情に翻弄された命の終わりが横たわっていただろう。変えることのできない運命が家族を連れて行き、ここにただ一人残された。お前は不幸から生まれた不幸だ。それなのに今目の奥に映る地下室はさびしく見える。どうしてさびしさなど感じる?)


いつまでも返事はなかった。胸になにがしかの痛みが襲い、それを選り分ける事ができずに、ハウエルは大主教の横顔へ縋るように視線を戻した。


「……ここは君の聖櫃なのだな」


真剣な声色が、ハウエルの思考をさえぎる。心の中に入り込んだものを脳が咀嚼した瞬間、笑い声が咽喉の奥から全ての情感を巻き上げて激しく響いた。


「何故笑う」


己に溺れるように顔を掴み、膝を折り、痩せた体が踊るようにふらつく。手の隙間から流れ続ける鬼気迫る声は、男を怪物と思わせるに十分だった。

しかし半狂乱になってばらばらで雑多な動きを見せるハウエルは、心に何がきざしたのか探る目が自分に向いたことに気づいていた。いい気味だ。喜悦が脳を貫く。半身だけ汗がどさりと出ている。残りの半分、死んだ汗腺には先程の独白が詰まっている。ハウエルの肩にかかった黒い掌のような触手は、黒ずんだ緑の葉を繁茂させて半身焼けた体を苗床に苦難の叫びを扶育していく。


みるみる全身に黒をまとい、叫び狂う声は膨れ上がる。が、ある一点に達すると飽和し、萎み始めた。喜悦は愚行の一直線上にあるものだ。やがて青褪めてすすり泣くような呻き声をあげるのに時間はかからない。最後には喘鳴となって、奇行は灯火をちらちらと揺らすだけに収まった。


「はっ、ふ、ふ、っ………、…笑わずに……いられません」


手の甲で唾液を拭いながら、ひそかに涙を耐え抜く。

地獄の再演じみた部屋はまるで夜空のように暗く、蝋燭は星のように瞬いている。にじむ瞳を細めると想像力に助けられ、夢幻のように煌めく。顔半分を暗闇に喰わせながらハウエルは笑みを見せた。


「大主教……大主教、わかりますか、貴方がここを聖櫃といった時、嬉しく思ってしまったのです。私は貴方と心を分かち合いたくなどなかった。ここは災禍によって亡くなった魂の墓標。私の墓だ。私だけの墓だった……」


虚しい風が吹いている。ほどよく湿って炭化した寝心地の良いところだった。前生だけを抱えて、その他を考えずにいることほど気楽なことはない。

けれどもう熱の無い炎は消えてしまった。凄惨な記憶を甦らせては弄ばれるままにされていたかった。ハウエルを生涯にくくりつけていた炎はもうどこにもない。亡骸と融合して夢中になって遊戯に耽っていたハウエルの主眼を、目の前の男が吹き飛ばしていった。矢をつがえた男の胸倉を掴みあげる。


「もう一度私を燃やしてください。今すぐに燃やしてください」

「駄目だ」

「どうしてです。私がどうしようが貴方に関係がないでしょう。これは私の事なのです。私はとっくに死んでいるのに貴方は私から死を奪った。貴方はもう一度私を焼かねばならない」

「そのような事はしない」

「貴方は何も理解していない」

「……望んでいるのは謝罪か?」

「違う!」


服を掴んだまま、ずるずると頭を下げる。この男は鋭い男だ。周囲の曖昧を許さない。男が引き攣れる一団が異様な緊張を漂わせていた意味がわかる。会話は極めて短く、わめく子供の質問攻めに態度は冷たく、突き放してくる。悪趣味だ。人の行動を取り仕切って、思惑など一切気に掛けないのだから理不尽だ。大主教などと度が過ぎる肩書きを持つなら救ってみせろ。教会人など人の輪郭をしただけの蝙蝠だ。ひとはみな、この男を直視するのが怖いのだ。


罵倒はいくらでもハウエルを、痛みの生じる現実から遠ざけてくれる。車輪をつけて滑走する居心地のいい箱は、行方の見えない霧の中を行く。

それでも今、ハウエルは滑走する視覚の全容を拒絶し、指の背から伝わる他者の体温を感情興奮をおしとどめる楔として踏みとどまった。






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