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132 最後の夢と、

「最後だ」


憎悪が転換した何かが司祭の口から従順な「はい」という小声を吐き出させた。男は最後の燭台の正面に立ち、自分の意志で右手を持ち上げた。真っ直ぐに火を見つめる眼に、もう苦しみはなかった。


音もなく闇が訪れた瞬間、男は聖女のごとく無垢で、純真な存在になっていた。

すべての蝋燭が消えて、部屋に充満した闇に向かって、心からの笑みを浮かべることができている。筋肉は弛緩していたが、無力感からではない。今まで感じたことのない昂りが全身に投影されている。世界の全てに承認されていた。無意味で絶望的で退廃的なものを抱えていた自分を脱ぎ捨て、目を覚ましたのだ。喜びが熟れた果実を割ったように胸からほとばしる。


「はっ、は、はっ、ひ、あ、ぁ、な、え?―――――っ、あああぁ、っあ、やめて、い、あああっ、や、あっ、あああっ、い゛ッーーあああああ!」


濁流が全身を包む。大蛇に頭から一飲みにされたように、絡みつく膜に全身を焼き尽くされる。


(また、……、焼けて、……)


男は前後の区別もつかないほど正体を失った。体躯は反り、踵は宙に浮く。頭からつま先立ちをする指まで、光の柱に化身する。耳の後ろから異様な音を立てて何かが生えてきて、男の体は広がりをみせた。


骨を削るような音が床に達した時、頭の中に伝わったのは、"己の手"が床についた感覚だった。意識がなだれおちる。傾ぐ視界を埋めたのは鳥の翼のようなものだった。

最早恐怖も喚起されず、瞼を閉じた男を横たえる。体を支える力強い手は、最後まで男の背に添えられていた。




『どうすることもできない』


そう言った占者が寝台の前から退くと、横たわる家族の姿が見えた。

日が経つにつれてやせ細り、腐った肉と汚物の入った木桶が足元を埋めている。


部屋にはそれきり沈黙が落ちた。成人が複数詰め込まれた狭い部屋に誰の声も聴こえない。目張りした窓の向こうで物音がした。どさりと石畳に重い物が落ちた音――――聞きなれた、遺体を投げる音だった。向かいの家で人が死んだ。音はまた聞こえた。窓を見つめていたハウエルは、占者の言葉を遅れて理解した。自分には手の施しようがない、だからもう何もしないと、神妙な顔をしているが無能の証明にほかならない。沸騰するように顔に熱が集まる。感情のまま怒り狂い、壁際で治療道具を片付け始める役に立たない男を殴りつけてやりたい。


それなのに動けなかった。頭を垂れ、顔を体の中に沈める。気力がなかった。本当はそういうだろうとわかっていた。それはハウエルの言葉でもあった。


病に侵されれば最後、命を明け渡すしかない。看病など道連れを増やすだけなのだ。占者がこうしてやってきてくれただけでも涙がでるほど嬉しかった。耳元で鼓動がどくどくと脈打ち、押し潰されそうになる。恐怖、責任、孤独。みんな死んだ。みんな。みんな。俺はひとり。いやだ、諦めたくない。まだ生きてる。息をしてる。目が俺を見て―――――――殺してと願っているのか、わからない。助けてあげたい。どうすることもできない。諦めないといえない。つらいよ。つらいよ、―――――『あぁ―――』


渇いた目からは何もでず、顔は引き攣り、動かない。全身が重い。なんの感情もない空っぽの目が床板を彷徨う。瞬間、足の合間が赤く染まった。顔を上げると部屋が油を巻いたように、真っ赤に燃え上がっていた。寝台は炎に巻かれ、布に燃え移る。家族は天井を見つめたまま、あるいは開けない目を閉じたまま、生きたまま、焼かれて――――――『やめてくれ、もう見たくない』


妹の寝台に駆け寄って体を抱き上げる。下肢の無い体を抱いて、『明らかに夢とわかっているのに』、それでも逃げようと必死に足を動かした。――――――『もう、もう、やめよう』


顔を覆って泣いていると、そばで硬い声がした。冷たく、深い音色をした声だった。


「――――夢は君の内なる輪郭を描き出している。炎から逃れられないあの光景は、君の後悔と懺悔の生き写しの姿だ。君はここで諦観を感じながら、長い間留まってきたのだろう。これからもここに留まる方が楽だというなら、それでもいい」


うすく口を開けて、見上げると、その男はそばに立っていた。炎から逃れる男を共に眺め、その目がこちらを向いていないことが、救いだった。

二人の間を風が渡る。


「もし飛ぶ気があるのなら私の元に来なさい。君は自由に飛べるのだから、どこへでも行ける」


呆けていると、鼻で笑われたあと視線で後ろを見るように促される。


(うしろ…?)


振り返った瞬間――――肉体から離脱した魂が、ハウエルの体に戻った。

ぱちりと瞼を開け、覚醒したハウエルは開ききった口から赤い舌を伸ばし、上唇にそえた。渇いた肌に貼りついた舌がもたれる。剥がして、もう一度、今度は潤した舌を這わせる。ここは、どこだろう。


「口を閉じたらどうだ」


降ってきた声にぎょっとして体を起こすと、かたわらに座していた男がいた。床板で尻をこすりながら遠ざかると、背がどんと尖った物にぶつかった。






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