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リリィ 思いつくままに書きとめたささやかな覚書と一切の崩壊。無力な愛、ひとつの不幸、ただ愛を愛とだけ欲したある価値の概念  作者: 夜行(やこう)


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131/416

131 涙と呼吸と、

ホルミスは司祭の前まで進むと、かがみ込んだ丸い背の男が自分の顔を覗くまで静かに待った。けれど男は前屈みになるばかりで、姿勢に張りがなくなっていく。両手で顔を抑え、絶望的なまでに魂を攪拌されながら静かにやつれていく。男の顔は見えない。見えるのは最早決断もままならない溺れる者の姿だけだ。


「やり方を教えよう」


脈絡のない言葉に思わずといった風に顔を上げた司祭の目には、小枝のような亀裂が走っていた。誰にも踏み荒らされていない無垢な雪原に佇み、寝起きの様にぼんやりとこちらを見上げる。その幼い眼差しから見出せるものが、寸分たがわぬ彼の真の姿なのかも知れない。

それまで嫌悪すら抱いていただろう男に自分を委ねてしまうほど、男は壊れ、死の影を宿している。黙ったままでいると情感を探るように瞳が揺れた。親の言葉を待つ子供のようで、見ていると共に滅びてやりたくなる。もっとも、そういった行為は白ける。


視線に答えぬまま、詰襟の隙間に指を差し入れる。あっ、という短い声が漏れる。肌に触れる指輪の冷たさに正気に戻った司祭は、若い体に力を込めて腕を弾き返そうとこころみるが、無理やりにこじ開ける方が速かった。釦が飛び、部屋の隅に滑っていく。露わになった火傷痕ごと首を掴む。薄い体を引っ張り上げるのに苦は無かった。


「まず顎の骨に触れる。そのまま指三つ分手をおろしていくと押し返す筋があたる。それを親指と二本の指で圧しこむ。気道を圧迫し続ける」


腕を何度も殴りつけ、狂暴に手足をばたつかせる男は、ようやく力の差を理解したようだ。恐怖が、一心不乱に呼吸をする顔を彩る。

人を殺めるという行為には理由が伴うものだが、今日初めて逢った男に首を掴まれて小動物をつまみ上げるように好き勝手にされている理不尽さに、動転し、古傷により割れた唇からはっきりとした物質的な涎を垂らしている。銀糸が袖口を汚すのを、冷めた目でみるこちらの目を意味もなく反芻している。


目を合わせ、「どうだ。死ねそうか」と訊ねた。


唾液の詰まった咽頭からは甲虫の羽ばたきに似た音が噴き出した。発狂がそうさせるのか、頂に達しようとする体に先んじて心が死を迎え入れたのか定かではない。わかるのは男の輪郭のなかにある魂は肉体と異常なまでの速さで別離と結合を繰り返しているということだ。穴という穴から噴き出す生臭い感覚を、向かい合うも共有することのない時間が過ぎていく。次第に膝は持ち上がらなくなり、散々殴りつけていた拳も袖口の装飾に指を引っ掛けたあと、ぴたりと動きを止めた。


頃合いかと首を緩めると、男はぐったりとして膝を折った。床につくまえに無理やり胴を抱き、引き寄せる。勢いをつけて後ろを向かせると、背骨の形が腹にぴたりと合った。男は夢の中にいるようだった。顎を掴んで、接する生肌から理力を流し込むと、鷲掴みにされた男は唾液を飲み込み、瞬きをした。弛緩していた体が硬直した瞬間、あられもない声があがる。


絶叫と、自分の声に耳を疑うような愚鈍な響きが連続する。


他者の理力は易々と受け入れられるものでもない。吐瀉物を口移しされているような気持ちだろう。体全体で痙攣する反発を抑え込みながら、いまだ円滑にまわりすぎる喉を軽く押し、喚く男の耳に顔を寄せる。


「私の言う通りにしなさい。右手を出して」


ほんの少し理力を抑え、何も心配しなくていいとこめかみに何度も囁く。意識が曖昧になった男は手を振り上げることもかなわず、後ろ毛を乱しながら何度も頸を折る。暴れなくはなったが、泣くのをこらえるような顔をしている。きつく噛みしめる口に指を入れて開かせると、手を取って壁掛けの蝋燭台に近づける。融けた蝋が芯棒におうとつを作り、いまだ痙攣する指を照らし出す。


「火だ」


――――燃やされた教会のなか、

――――燃やされた神像のそばで、

そして未だに火に巻かれている男は、蝋燭という小さな灯火ですら、大火のごとく顔を背けた。強迫的な衝動は手首に真横に刻まれた傷跡をさらした。男の口からは言葉らしい言葉は生まれない。自傷の痕を素早く隠して、袖ごともう一度手を取ると、己の恐怖から逃れる懇願が聴こえた。果てさせる前に何度でも名を呼ぶ。


「見ろ、……私を見ろ」


男の手に自分の手を重ねたまま、指の腹で火をはさみ、消し潰した。熱さを感じぬほど素早く摘まめば、くぼみに溜まる透明な蝋液さえ付着することはない。二人の体は瞬く間に薄闇に呑まれ、撫でるように影の形が変わる。

腕の中で男が息を飲むのが伝わった。のぞきこむと、目は大きく見開かれ、掲げたままの指先を凝視している。緊張した耳に「何ともない」と囁き、指の腹を見せた。


身体を押すと、男は意図をくんでゆっくりと足を動かした。ほとんど引きずられるようだったが、隣の燭台の前で同じように灯火をつまむ。また無傷の指の腹を見せて、場所を移す。今度は司祭の手首を掴み、火のそばに導く。男はまた顔を背けた。首筋は涎で光り、壊れた留め具がひしゃげて飛び出ている。乱れた髪を軽く梳いてやると、時間を掛けて戻ってきた顔が、また頃合いに火を見つめた。手の甲に触れると、男は黙って腕をあげた。指先から緊張が伝わってきたが、終わってしまえばさほど熱くないことがわかったようだ。段々と息が整っていった。






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