130 消えぬ炎と、
煉瓦と木材を交互に置いた階段は作られた当時のままなのだろう。幾人もの足を支えた踏板はへこみ、黒く変色している。今も若い司祭の空漠とした足取りを受け止めながら、男の代わりに情けない呻き声をあげている。
地下の彫刻祭壇の元まで先導するカタリナ教会の年若い司祭は、暗闇の中で指を痙攣させた。
(……まただな)
今日幾度目かの行為に、アーデルハイト・ホルミスは目を細めた。
指の痙攣だけではない、食事会と合唱会でも彼は様々な症状を見せた。会話の合間に頻繁に片目を顰め、踏み出すのは必ず左足から。何かを薦めても決して聞き入れようとせず、物音への強い警戒心を持っている。
何度かその境目を調べるため、司祭へ小さな負荷をかけ続けたが時間の経過と共に不安定になっていった。カタリナ教会の地下で保存されている彫刻祭壇の見学という要望は元々おこなうつもりだったが、あたかも今思いついたかのように話した。ヴァンダールは儀式の準備で余人の相手などできないことも知っている。それが彼には大きな打撃となったのだろう。段々と苛立ち始め、声色に棘が感じられる。
そういったものは自己を防衛する反応でもあるのだろうが、
(はたまた本当に恨まれているのかも知れないが…)
ホルミスは音もなく笑った。同行している従者たちは何を笑うことがあるかと、機嫌のいいことすら物言いたげに見てくるが、いっそ哀れみを授けてやりたい気になっていることも分かっているのだろう。司祭の態度を直し整えようとすることもなく、後ろで耐えてくれている。
名前はハウエルと言ったか。司祭にしては若く、その痛々しい風采もさることながら、脆い精神は病人を相手にしていると感じる。彼が端々に見せる行為は全身に残る火傷痕による後遺症なのかと類推もしたが、精神的な衰弱からくる苦悩なのだと接している内に結論を出した。
暗がりで見えないと思っているのか、地下に案内し始めてから彼は抑うつ状態における精神的な特徴を最早取り繕わなくなった。元より彼は事務的な会話はできても、そこに心からの言葉など一つとしてなく、内向的で、一度たりとも他者と目を合わせない。自分の助祭にさえ目を向けないのだから、顔を見る事が怖いのだろう。視線かも知れない。
(彼は解放されたがっている……よりによってこの教会に封じるとは、不調和を好む男らしい残酷な差配だな……)
夜の暗闇の中で物を見分けることができる目をもっているおかげで、昼間のような明るさの中で観察している。彼は拳を握って痙攣を押し隠そうとしている。垂れた頭から何かを振り払おうとしている。苦痛か、抱えているものを正しく想像することはできない。
彼が司祭として務めるカタリナ教会は、外陣こそ彫刻に彩られた美しい詩情をもっているが、外観は堅牢で、目線の高さに窓は一つもない。まるで籠城するための要害であり、ヴァンダールが用意した棺として彼を縛り付けている。構内は極端に暗く、祈りに訪れる者を現実から切り離し、孤独にさまよわせる。現実が荒涼とした風景であるならば、高い丸窓から差しこむ光だけが救いであるかのように見せる。こういった雰囲気の効果は他の教会でも狙われているため、不思議なことではない。
「貴方のご両親も病で亡くなったと聞いている」
物のない地下室で振り返った司祭は職位に服従することも忘れて「死にました。よしましょう、私の話は」と言った。
壁掛けの蝋燭台に火を分けていくと、地下室全体が彫刻によって装飾され、埋もれるように多数の絵画が飾られていることに気がつく。
上層の朽ち果てた空気とは打って変わって、白と金を基調とした部屋は荘厳で、装飾のすべてが最奥を向いている。
「疫病の治療所にもなったカタリナでは、患者を隔離しながら治療をおこない、その居住環境は牢獄同然でございました。治療といっても、死を先延ばしにするための処置をおこなっていたというのが実際のところです」
後方に控えている助祭は悲しみに暮れる演技をする。司祭はその横で俯き、動かない。隔離されたような雰囲気があった。従者たちに目配せし、ホルミスは彫刻祭壇の真正面に立った。
「これが……焼却された神像か……」
すべての彫刻の視線の先、最奥に座するのは絡み合う神龍の像だった。天に昇る瞬間を象った美しい躍動感が翼にあったのだろう。今は残った片翼にその名残りを見る。
神話通りであるならば、愛する白龍の魂を抱いて、天の幕を突き抜けんとする場面だ。人々に感じる失望、愛する者を失った絶望、鱗のひとつひとつや、うねる尾の先にいたるまで、強烈な情感が込められている。魂であるはずの白龍も姿をそのままに残していることから、彫師の想いも感じとることができる。
しかし体を寄せあう龍の体はひび割れ、肌が膨れ上がって四方に広がっていた。炎に包まれて燃える木が白くひび割れるように、炭化している。
ホルミス側は沈黙をもって焼け残った神像を見上げていた。助祭の声だけが場違いに響く。
「各地区の教会や診療所はもとより、各家庭でさえ罹患者を抱えておりました。みな感染を怖れ、外出せず、外には汚物と感染者の遺体が放置された。都市は死と向き合いすぎました。或る夜、教会に放火され、患者もろとも多くの教職者が巻きこまれました。治療にあたっていた者の中にいらっしゃったヴァンダール大主教が、炎の中に飛び込み…………」
振り返ると助祭が薄い笑顔でこちらを見た。期待されている言葉を鼻で笑い、ホルミスは司祭の指が痙攣するのを見ている。




