129 冷えかかる世界と、
「貴方のご両親も病で亡くなったと聞いている」
階段をおりるかおりないかに大主教はさらりと口にした。ハウエルは意識して足を動かし、地下空洞まで下りてきた大主教を何食わぬ顔で振り返った。
「死にました。よしましょう、私の話は」
「そうだな」
乗りあい馬車の時間を告げるような淡々としたやりとりが交わされる。老年の面差しに一抹の憂いも乗らないとわかっていながら、薄暗さに乗じて我執を通した。ペトリから伝えられたジョエル司祭の言葉が遅れて頭を巡る。ヴァンダール大主教の名代として接するようにという言葉は、彼からの信頼の厚さによるものだろう。
けれど司祭もペトリもその言葉がどれほど苦痛を与えるか考えたこともないのだろう。痴呆性老人の思い違いはしつこく寄り添ってくる。いつまでも一族郎党を病で失った悲惨な男として扱うことも、過度な期待も、幸福のお膳立ても、何もかも苦痛で仕方がなかった。体内をめぐる悲鳴がハウエルの頭部に突き刺さり、視覚的にさえ捉えられるようだった。けれどハウエルもわかっていた。彼らを拒絶したことは一度もない。"教会に生かされた"男は、老人たちの背後から抜け出す生き方を許されていないのだということを長い時間をかけて教え込まれた。
大主教が何故知っているのかわからないが両親は疫病に感染し、治療の甲斐もなく肺に溜まった血を噴きだしながらこの世を去った。血飛沫は必死の看病をしていたハウエルの身に降りかかり、治療に駆け付けていた占者によって、すぐさま患部が消毒された。ハウエルの皮膚をただれさせたまま全身に残る火傷痕は、頭部を器具で挟まれながら滅却処置を施された際にできた惨い治療の痕だ。
藁のように勢いよく燃えさかる炎の中で、腕の皮膚が表層ごとに縮み、黒くなっていく様を見ていた。目が熟し、破裂する感覚を最後にハウエルは苦痛から解放されるはずだった。けれど五体満足で目覚めたとき、寝台のそばに体躯の曲がった老婆が腰かけていた。彼女は歯の抜けた顔で笑っているのかもわからないほど口を歪ませ、水差しをハウエルの口元にあてがう。震える手は不確かで、水のほとんどが唇の端から零れていった。次に目が覚めた時も老婆がそばにいて、今度は皿から食事を与えてくれた。段々と夢から覚めていくように意識が戻ってきたハウエルは、その老婆が感染者の看病をさせられている使い捨ての女だと気づいた。部屋には死臭が充満している。二人の心は死んでいるようなものだった。
寝台から起き上がれるようになると、教職者たちがやってきて口々に「神に救われた」といった。そばに壮年の男がつくようになった。老婆は二度と現れることは無かった。
隔離施設から移されたあとハウエルは全身に残された火傷痕という看板を見せながら生きていかねばならなかった。教会は居場所を与えたが、ハウエルを装飾品のように扱い、他者に憐憫を与え、同情をさそう道具とした。可哀想と言われ、慰められる日々のなかで壮麗な峰のように高潔だった精神は、山裾に落ちる霧のように薄暗く落ち、男の精神を迷宮に誘った。
取り繕いながら生きるハウエルは居場所を与え縛り付けた教えの中に、救いを見出した。神に祈る事で心を落ち着かせ、救いを求めて苦しむ人々を助けることで、自分の意味を見つけられるような気がした。そうしていると老婆がいつか姿を見せて、彼方を指さしながらこう言ってくれるのではないかと思っている。「もう死んでもいい」と。ハウエルの心はいつも荒野にあった。一条の光すらない世界、そうして空虚な場所に居続けたかった。脱することも考えず、ただ途方に暮れていたい。いまだ分裂する心を、ひとつにまとめ上げることもしないまま、土壌の上に教義という杭をうち、自分の形を保っていた。
「気分が優れないように見えます」
従者たちが次々に蝋燭に火を灯していく。最奥まで光の道が伸びて、小さな灯りがハウエルの顔を照らした。
肌をひきつらせ、脂汗をかいていると気づいた助祭が顔を近づけてくる。大主教から見えないように体で壁をつくる助祭の肩の向こうでは、大主教が殺風景な部屋を眺めながら、足元に伸びる冷えかかる空気と一緒に奥へ入っていく。こちらを見てもいないのに背中に目があるように思える。あの男をみているとジョエル司祭やペトリに感じる嫌悪感とはまた違う吐き気があった。
大主教に盾突くことは不幸でしかないとわかりながら、罪を暴かなければならないという直感が働く。(罪―――? なんの罪だというのだ)ハウエルにもわからない。
何でもないと首を振って、初めて助祭の顔を見た。言葉を選ぶ二人の間を、奥から響く声が遮った。「どうしたのかね、司祭」支えようとする助祭の肩を押して「何も」と答えた。




