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リリィ 思いつくままに書きとめたささやかな覚書と一切の崩壊。無力な愛、ひとつの不幸、ただ愛を愛とだけ欲したある価値の概念  作者: 夜行(やこう)


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128/416

128 闇の中に浮かぶ海と、

カモメの鳴き声が甲高い。

古いたたずまいを残す細く曲がりくねった路地で花飾りをつけた子供たちが集まって騒いでいる。


観光客も入りこまないような狭い路地はかつて賑わっていただろう小さな店が並んでいるが、そのどれもがかたく扉を閉ざし、色の抜けた看板をぶら下げている。唯一開店している店は小物や食器、服などが並んでいるが店主は路地に面した窓からけむくじゃらの腕を出してうたた寝をしている。通りを行ったり来たりする子供たちの声すら子守歌に。


子供たちは花飾りをつけた女の子を守る執行官側と、彼女を浚おうとする悪者側に分かれ、追いかけっこをしてた。

自分たちで考えた理術を叫びながら相手の体のどこかに触れると、奴隷として囚えられる。両者どちらかが相手を捕え切るまで続く追いかけっこは、無邪気さで満ちている。


正義側がひとり石畳の上に倒れた。畳みかけるように悪者側が最後に残った男の子を包囲する。腕や髪に触れようとする手から逃れるも、少年も倒れてしまった。

女の子はひとりになってしまったが、追いかけっこは続く。一人でも逃げ切れれば勝ちだ。しかし細い路地ではいくら女の子の足が速くても、行く手を塞がれてしまう。


万事休すといったところで、走ってきた黒犬が女の子の前に立った。興奮して何度も飛び出そうとするので、女の子は慌てて首に抱きつき抑える。黒犬は女の子の大切な家族だった。大切な人を守ろうとする勇敢な黒犬に吠えられ、男の子たちは顔を見合わせると笑いだし、犬をむちゃくちゃに撫でて褒めた。みんなで埠頭に帆船を見に行こうと誰かが言うと、競うように走りだす。黒犬は尻尾を振りながら女の子のそばを回っている。


疾走する子供たちが波のように遠ざかると、路地はひっそりと静まり返り、演劇の場面転換のごとく代わりに走りこんできた一人の男の足音を際立たせた。男は蔦の絡まる煉瓦壁にはまる半円の扉の前に立つと、中央についた錨の形を象った叩き金を二度打ち鳴らした。すぐに内側から扉が開き、男は扉がすべて開くのも待てないと言いたげに、隙間にさっと身を滑らせる。


「ペトリさん、お戻りなさいませ。ジョエル司祭には」

「逢えた。許可をいただいた。司祭からの言伝がある、ハウエル様に取次ぎを」


身廊の柱から伸びた彫刻が美しい曲線を描きだし、カタリナ教会の天井に波紋を広げている。線の重なりを見つめていると、海に抱かれているような気持になった。柱のひとつひとつから生まれた波が天井という海の中で波紋を交差させている。

丸窓や上段の着色硝子から差しこむ自然光が、角柱と円柱が交互に並ぶ壁面や天井を照らし出している。祭壇に向く長椅子は夜闇に包まれたように暗く、一人の男が闇の中で高窓から差しこむ光をじっと見つめていた。


「ホルミス大主教」


海に抱かれ溺れていた心は、ハウエル司祭の足音を捉えていた。床板のきしみを耳にしていた大主教は深閑の中で既に立ち上がり、待ち望んでいた答えが得られたことを司祭の表情から読み取っていた。


「無理を言ってすまない、ハウエル司祭。国の行く末を論じる前にどうしても祭壇に祈りを捧げておきたかったのだ」


ハウエルは一瞬ずるそうに苦笑いをして見せた。大主教の歓待ですら荷が重いというのに、突然の要望を出された事で幾つかの行事は流れ、予定は狂ってしまっている。しかし大主教は当然ながら無理を通していることを承知で、その事は既に自分の心の中で終わったこととして見ている。ペトリをジョエル司祭の元に走らせるため合唱会で濁したことも、雨の飛沫があたる窓を眺めるように座して過ごしていた。今もまた、許可について聞こうともしない。


世界がただ自分の為に喝采していると思っているのではないか。端然とした振舞いは完璧だったが、それが妙に心をざわつかせる。そして恐怖も感じていた。大主教の笑みには陶酔が混じっている気がした。

ハウエルは大主教を内陣の奥まで案内しながら、合唱会の感想を訊ねた。引き出しの奥から出された言葉は感覚の上を撫でるような情感と知識に満ちていた。


内陣と外陣を遮る扉を開き、祭壇へ続く階段を降りる。角灯を持つ従者が左右に並び、蝋燭の火をつけていく。


埃と蝋燭の匂いが、ともすれば呼び水となるのかも知れない。ここに来ると誰しも追憶に思いを馳せるように、大主教もまた口を開いた。


「疫病がこの地を襲ったころ我々の医療は未熟で、毒を以て毒を制すという言葉通り、疫病に対抗するために服毒するといった共感医療が信奉されていた。それにより多くの命が失われたが、ヴァンダールを起点に医療は急速に進化をしたことも事実。当時ホルミスはマーニュ川を利用した船舶物流による貿易を盛んにおこない、ヴァンダールの船が入港しない日はなかった。疫病に侵されていた船員が発症し、荷卸し場の者たちも次々に倒れた。領地の端から内陸にあるホルミスまで悪魔の行進は瞬く間に始まった。しかし都市に入られる前に小村で抑え込むことができた。それはヴァンダールからもたらされた治療記録のおかげだ。ホルミスは貴方方に生かされたのだよ」






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