126 木陰の別離と、
詠隊の最年少とはいえ成人相応の男を肩に乗せているというのに、足場になっている男は背負い鞄を持つように脇の前で細い脚を掴み、和やかに笑っている。物ともしていない温厚な男にディオスは同情の目を向けた。
「強要されているならそう言ってください。嫌な時は嫌と伝えた方が彼も学習する機会を得るかと思います」
輝銀鉱を見つけた時も湿地に入り込んだのは詠者であった。ポーレ長司祭の人柄の良さがそうさせるのか彼らの仲はとても良く、男所帯だが家族のような親しみやすさがあった。(齧歯類の動物の大家族…っぽい)とディオスは頭の中で植物の種を口いっぱいに含む小動物を思い浮かべているが黙って置く。詠者といえば、礼拝の際にエゲリア写本の文言を詠う事が求められる職位だが、典礼の厳かな場での祈りの言葉を歌う彼らは想像できないということも、黙っておいた。
ディオスの言い分に反論があると頭上で口をとがらせた青年は、玩具を取り上げられそうになった子供のように顔をしかめた。けれどすぐに悪戯な笑みを口角に乗せる。そのイヤらしい笑みといったらなかった。取り合っていると余計な時間が掛かるため、ディオスは青年の顔を見ずに指先を立てて言葉を押し留める。男は呻いて唇ときゅっと結んだ。
温厚な男は、頭上で青年が騒ぎ出さないか、まなこの白を半月見せて様子を窺っていた。どうやら喋っても問題なさそうな空気を感じ取ると、柔和な笑みでディオスに目礼する。それが手のかかる子を持つ父親のそれであり、その清流のような優しさの泉が枯れない事を願うばかりだ。
「そこまで緊急ではなさそうですが。何があったんですか」
「実は大きい声では言えないのですが、中央通りの飲み宿屋で怪我人がでてしまったんです。おっしゃる通り緊急ではなくて、理術に長けたものを呼ぶまでもない軽傷なのですが、医生の本隊は龍下と同行していますので未着ですし、一番身軽なディオスさんにお声を掛けた次第で……すみません、同行してくださると助かります」
「それは構いませんが……長司祭だけでは手が回らないなんてどういった状況ですか?」
「一隊目の数名が街に繰り出して、市民と果実酒の飲み比べをやって腕っぷしを競い始めたのです。それなりに酒を過ごしているものですから乱闘に発展し……ヴァンダール側に迷惑をかける訳にはいかないですし、大事にしたくないというのが正直なところです……」
「市民に怪我人は」
「いえいえ! さすがに海の男にはこのぐらいかすり傷だとかなんとか」
「させてるんじゃないですか……龍下に恥をかかせるつもりなんですか……? 今回同行していて思いましたが、アクエレイルの教会人は騒動を進んで起こそうとしている気がします」
「いえ! 本当に違うのです……勿論口より手が出る者はいるのですが、ほんの一部です。やはり……理力や職位に関する差別意識が……龍下の御膝元だからこそ強いといいますか……いや! いや、すみません、失言ですね……」
「ねぇー、難しい話はいいですって早く行きましょうよ。ポーレさん待たせるつもりですか?」
「お前は早くそこから下りろ」
「はぁ? あー、わかった、羨ましいんでしょディオスさん」
青年は「眺めいいんすよ!」と上機嫌に相棒の髪をかき混ぜて遊ぶ。盛大な溜息をついたことは言うまでもない。何度も礼を申し述べる男と一緒に歩き出すと、いつの間にかすぐ後ろに来ていた涼風に耳元で囁かれた。
ディオスは誘われるように振り返った。そこには格子のはまった小さな窓があって、壁向こうの道が木陰づたいに見えた。薄暗く、苔むした石材が二つ三つ横たわっているだけの風景はつい先ほどと変わらずそこに在る。木陰から悲しみに耐えるような気配が漂い、ディオスはいっとき何か喋ろうとしている額縁を見つめる。
しかし世界は何も伝えなかった。ディオスの身を戯れだけが通り過ぎる。不意に、散るには早い青々とした葉が額縁を横切った。風にもてあそばれて石畳の上に落着した葉は、格子蓋の暗渠へ吸い込まれていった。
「……トリアス?」
どうしてその名を口にしたのか分からなかった。
奥底の方から揺るがす何かを言葉にできぬまま、ディオスは立ち尽くしていた。
◆
二人の詠者と一人の研究員を乗せた馬車が管理棟を離れていく。石畳の路地を遠ざかる馬車を見下ろす大広間の窓辺で、司祭・ジョエルは詰めていた息を吐きだした。
これまで数百人の教職者に何をして、どう動き、どう対処すればいいかを指示することは何度もあった。しかし、龍下の歓待となれば話は違う。大主教の御許で宣誓したときのような胃が苦しくなるほどの緊張があった。今日という日の為、念入りに下調べをして、起こりうる問題を想定した訓練までも行った。今のところ想定通りの時が過ぎ、対応事項には次々と取り消し線が引かれていっている。それでも机上の地図を見ていると、受け流すことのできない気持ちが渦巻いた。きっと大会が終わり龍下がアクエレイルにご帰還なされるその日、不活発な感情から解放されるのだろう。
現状は司祭として情けない顔をさらすわけにはいかない。もう一度息を吐き、平静とした顔を作り上げたジョエルは片眼鏡越しに、見慣れた、けれど愛する街並みを見つめた。司祭とはいついかなる時も他者の規範となるよう厳格でなくてはならない。わかっているのに、復興した街を見ると目頭が熱くなってしまう。かつて市全域を襲った疫病によって、多くの古参の教職者たちとの別れた。その瞬間を思うといつでも心は過去に引き戻される。彼らは喜んでくれるだろうか。いや、喜んでもらえるようにして見せなければならない。それがヴァンダールに生きる教会人として、市民として出来ることだ。泣くんじゃありませんよジョエル。心の中で言い添える。
「ジョエル司祭、ご報告申し上げます。カタリナ教会の従者が御目にかかりたいと申しております」
ジョエルは広間の入り口で控える男を目端で捉えた。
 




