125 格子と、
篝火の前でハリエットは自分を初めての友達だと言った。その時確かに語ったはずだ。自分は大聖堂の医疾部の研究員で、理力や薬物の研究をしている。そして五節前に大発見をした。特定の植物を摂取することによって体内の理力を微増させることができると。そう、「微増」なのだ。人が持って生まれる理力量には底があり、許容量を増加させることはできないとされてきた。だからこそ「微増」程度でも、晩餐会に出席を要請されるほどの大事になるのだ。
(元々理力がなかった者が突然帯持ちになる……ポーレ長司祭もあの夜に帯を発現させた。持っていた法衣石はハリエットのもの………この輝銀鉱の理力はハリエットが拵えたというわけか?…………けれどそんな事ができるとは一言も……)
ディオスの思考は海面を漂う浮標のように、決してひとところに留まってはいなかった。
「………彼女はどこへ行くか言っていましたか?」
「いえ場所までは」
普通の子供心で飛び上がって喜びたい気持ちが少しもないとはいえない。けれど研究というものは雪に覆われて先も見えない道を一歩ずつ手ずから除雪しながら歩く、孤独で途方もないものだ。女に逢いたい思いに駆られる。
その時、北門をくぐる白服の一団がやってくるのが見えた。
彼らの顔には無事に到着した安堵がありありと浮かんでいる。隣の男はそれらを見出して喜んでいるようだった。
「明日からはさらに賑やかになりそうですね。四地方の教会人が一か所に集まるなんて、まるで知らない街のようです」
「……よくいらっしゃるのですか」
ディオスは革鞄の中身に意識を残しながら、男と同じ方向を見た。
「遠縁の者が商店を開いているんです。一族そっちの才能があるようで、私なんかは突然変異といいますか。まぁ蚊柱みたいなものですよ」
「私もそのようなものです」
「おや、鼻つまみ者同士というわけですか」
目を瞑って笑う男に、ディオスは不思議と男と理解し合えたような気がした。
「医生のディオスさんどちらですか? 長司祭がお呼びです。ディオスさんはいらっしゃいますか」
「ディオスさーーん! 俺です、俺ですよー!」
ディオスは首を振って振り返った。しかし思わず声の方向から顔を背けた。男がひょいと顔を出し、何事かと見遣ると、大の男に肩車された青年が額に手を宛てながら練り歩いている。周囲は祭事かと手を叩いて見守っているので余計に頭が痛かった。二人は輝銀鉱を見つけた詠隊でもあり、妙な巡り合わせも感じる。
「お知り合いのようで」と男が笑うのでディオスは否定したくなった。
「……すみません、お手数をお掛けしました。荷物は確かに受け取りました」
「はい、あのディオスさん」
と、そこまで言って背後に騎馬隊が通り抜けるのを待って、口元だけを動かした。
「預かりものをした時に男がね、ちょっと遠くに立ってたんです。お嬢さんを見ていたというより、"それ"を見ていたように思います。その人は白と橙色の服を着ていたような、いなかったような」
「…………」
「その色は、私達の剣であり盾でもあるあの方たちだけが許された御色。教会は彼らが規律を強く守り、市民の規範となってくださるゆえに在りますからね。敬う気持ちしかありません。ね、そうでしょ」
ディオスは視線を動かさなかった。男を真っ直ぐ見つめ、目を逸らさなかった。背中や肩、横顔に、額に、視線を感じた。男が肘を突いてきた一瞬ですべて霧散していった。ほんの数秒だったが、長く感じられた。ディオスはどこも注視しないように気を付けながら、改めて礼を言って男と別れた。お気をつけてと返された言葉がしばらく耳に残った。
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女は去った。トリアスの行く道は旧市街に続いている。
数日後大聖堂でどのような終末を迎えるか、これまで長い時間を掛けて考えてきた。いくつもの対策を立ててきたというのに、いざこの地に足を踏み入れてから何ら対策もうっていないような暗い縺れが湧いていた。
平静を演じながら、汗ばむ手を強く握っていた。家屋の屋根に翻るあのヴァンダールの市章のように、吹き荒れる風に翻弄されている。
『あ! 居た! ディオスさん! そんなところで突っ立って、さっきから呼んでたのに聞こえなかったんですか?』
『こら、もう少し目上を敬いなさいお前は……すみませんディオスさん、この通りうちの最年少なもので……』
『えー、どういう意味っすか? だってディオスさんですよ。めちゃくちゃ尊敬してるに決まってるじゃないですか。ね、ディオスさん、そんなところで突っ立ってないで、こっち来てくださいよ』
『知り合いだと思われたくないんだが………』
気の滅入りは永劫消滅することはない。この種の不安は一つを宥めても、すぐにその次が湧いて出る。
だから他者と交友を深めて親和への要求をいくら満たしたところで、強烈な渇望を濁すことはできない―――。
「……………」
一架の額縁がトリアスの目の前に飾られていた。蔓の絡んだ小さな格子窓の向こうは、トリアスが別世界と定義したものだ。
絵画の中央、馬車や数人の白服たちを背景に、一人の男が佇んでいる。
男は端的にいえば、お洒落とはいえない装いで、微かに寝癖のついた髪には、水に濡らした手で取り繕ったのだろうあとが見て取れた。見た目を気にしないことは害にこそなれ益にはならないと話した成果が、ほんの少し垣間見えたようで、それだけで今すぐ男の傍に駆け寄りたい気持ちで溢れた。
トリアスは男の名を囁いた。




