122 告白と独白と、
「恐れは私達の目をくらませます。愛する人を失った時、困難に直面した時、先が見えずにどうすることもできず、そしてこれからさらに予期せぬことが起こるのではないかと感じてしまう。だから私達は寄り添いあい、共に乗り越えようとする。けれど国が発展し、貿易圏を広げ、個人の達成欲求が満たされ始めると、儀式の意味は歪み、変遷していった」
通りの向こうで扉が開き、腰の曲がった老婆が出てきた。彼女は頭と同じ高さにある腕で精一杯扉を押しのけると、また家の中に戻り、木桶を持って出てきた。
階段の片側についた鉄柵によりかかりながら、開渠に汚水を流し込む。木桶の古びた柾目が老婆の縮まった体に刻まれた皺と重なって見えて、クリスティアナは不安に目を細めた。老女は桶を空にする作業に怖ろしいほどの時間を費やしている。鉄柵は遠目にも赤錆びている。重心が前に傾いた瞬間、頭から開渠に落ちてしまいそうだった。
パチン―――肌を叩くような短い音が響いた。咄嗟に視線を巡らせると、神父の緩く開いた右手から白い靄が立ちのぼり、空気に融け入って見えなくなった。次に姿を見せた時には、細く棚引く白煙が老女の体を抱きとめるように巻きついていた。狼狽する老女は髪の抜けた頭を左右にふり、落ち着きなく辺りを見回している。
木桶はひとりでに浮かび、汚水の最後の一滴をきる動きさえ器用にして見せた。老女は手に収まった桶を見てしばらく固まっていたが、折り目の正しい巡礼服の男を見つけると、またしても狼狽し始めた。何度も頭を下げながら、牧羊犬に追い立てられた羊のように戸口に引っ込んでしまう。
残されたのは末枯れた蔦のからみつく扉と錆びた鉄柵だけだ。金輪際開くことはないと言いたげな硬い空気が戻ってくる。
咥え煙草をはむ唇が、ふ、と緩められた。
「死神役をした女も、あのように腰の曲がった脚の不自由な者でした。息を切らし、何度も蹴躓きながら、逃げ続けた。男達は怒声をもって追いまわし、女は役とはいえ恐怖のあまり助けてと叫び、家々の扉を叩いて回った。けれど村人は掟を守り、死神を罵倒し、一歩も出ようとしなかった」
「……神父様は生きている命がお嫌いなのですね」
「淋しい響きですね。否定はしません。私の教養の背景は毒々しいものですから。でも貴方もわかっているはずです。都市での儀式は簡略化し、棒切れを持って死神を追い立てる者達は笑みを浮かべるようになった。老女を追い立てる男は遊戯に興じる子供のように笑い、しなくてもいい暴行を加える。そこに在ったはずの別離の嘆きは消え、死を退ける豪胆さが持て囃されるようになった。儀式は、豊漁や豊作、さらなる富を得るための欲深い執着を表すための道具になり下がっていることを」
「それでもまだ頷けません……充足によってひとりひとりの状態が改善され、心が豊かになったとはいえないのですか?」
人と人との間には多くの感情が生じる。神父の言葉に嘘はないことはわかっている。実際に彼が見て、感じた空気は殺伐として奇異で、見るに堪えないものだった。けれど言葉の裏に忍ばせた思いは、反発を感じるからこそ拒絶しようとする安易なものに思えた。そう感じるクリスティアナは自分がそういった儀式に参加する側であったから、社会という集団のまとまりを維持しようと努めているのかも知れなかった。自分が否定されたわけではないとわかっていても、感情や気分が揺さぶられないように意識し始めている。
慎重に吟味するクリスティアナの横で、神父は少しも器量が落ちるとは思ってもいない顔で立っている。
「"豊かになった"という言葉ほど、宙に浮いた無意味なものはありません。他人を思いやることや、正しさを重んじることができる心の余裕を"豊か"というのであれば、私はこの国に横たわる種族差別を知っていますから、豊かになったなどと生涯言う事はありません。私達は秘すべき潜在的な残酷さを発露することに躊躇いをもたなくなった。集団に依拠することで迫害を許容し、異種族の殺戮を儀式に組み込んでさえいる。ヴァンダールは特にゾアルへの異常なまでの嫌悪は親から子に引き継がれ、相手の苦痛が見えないように麻の袋に押し込めたうえで死に至らしめる、そのような残虐さと、集団という匿名性を笠に着た愚かな行為が平然とおこなわれている」
「……ご存知でしょう神父様。この街は疫病により壊滅的な打撃を受けました。お考えの通り、私は生まれてさえすらいません。ですが今の街並みは、復興を強く願う人々が石を積み上げたからこそ立ち並んでいます。病にかかった家族を外に放りださねばならなかった苦しみを………かかる風景を瞼に浮かべた祖母の悲痛な叫びを、慰撫できるのは儀式だけなのです。それに大主教はおっしゃっいました。疫病を連れてきた悪魔はゾアルだったと。だから、例えこの地から彼らがいなくなったとしても私はきっとそれを"浄化"とさえ思うのです」




