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リリィ 思いつくままに書きとめたささやかな覚書と一切の崩壊。無力な愛、ひとつの不幸、ただ愛を愛とだけ欲したある価値の概念  作者: 夜行(やこう)


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119 郷愁と、

アクエレイルを出発して数日、変わり映えの無い景色はすぐに娯楽ではなくなった。徒歩の速度に合わせた遅い行進を最初は有難く感じるが、頻繁に挟まれる休憩に歩調を乱される。野営地につけば慣れない作業。食事は美味いが、夜は冷え込む。寝床は土の冷たさをこれでもかと教えてくれる。これが何日も続くのだから、閉塞状況の中では当然小競り合いが起きてくる。


これによって分かるのは、教職者といっても、穏やかで理性的で暴動らしきものとは無縁の性格を持つというのは幻想ということだった。

普段は研究室にこもっているディオスにとって、大聖堂ですれ違う彼らは静寂境の体現のように、ひとりひとりが波紋ひとつない湖面にみえていた。向こうからすれば、厭世観の掃き溜めのような研究室もまた、異質なものに見えていただろう。同じ建物を歩き、呼吸をしているが、互いに別の世界の住人であると思っている。

しかし今回の旅路で見たのは、一般的な民衆と同じように一喜一憂し、時には不満を発露させ、暴力という原初の対話手段をもちいる教職者の姿だった。


つまりは、治癒者としてディオスは大いに駆り出され、彼らの俗人的な部分に振り回されることになった。体の活力ではなく、もっぱら脳の活力を切り詰めていた男が日に30人余りの医療天幕に行くほどでもない軽傷の治療に駆け回る。

見て見ぬふりをしてきた運動不足が筋肉の痛みとして表に出てきたのは、街を出立して二日目の事。まだ若い身であることを喜びつつ、荷車の間を縫いながら走るとよく声を掛けられた。


「おい、ディオス! 今晩いつものところで!」


陽が大河に沈む。大方酒の誘いだろうが、手づるを求められて妙な気分になった。元の根暗な、人付き合いなんて興味がない自分を知れば、誘われないのだろうなと意味のない"仮定"をたててしまう。

人によっては酒づきあいは嗜みであると言うが、慰労とは名ばかりの愚痴と絡み酒を甘受しなければならない。その面ばかりを考えれば正直(面倒臭いな……)と集団を忌避する気持ちがないわけではない。拒絶とまではいかないが、できることなら研究をしている方が有意義で楽しい。けれど、つい最近集団の中で孤立したがゆえに振りかかった苦しみもまた記憶に新しい。


医薬品の入った鞄を抱え直すと、ひといきついたその吐息が、夕暮れ空に融けた。(もうすぐ一日が終わる…)草原を眺めていると、突然自分が自然の中にいるということを強く意識した。鼻に通る草の匂いと、肌で感じる外気。遠くまで来たという感慨が心の岸辺に漂着する。


眼前に広がるのは一見何もない草原だが、足元を見れば膝丈の植物が活き活きと生い茂っている。葉が風に揺れて、茎ごとしなっている。煎じて飲めば胃薬にもなる薬用植物で、研究室でよく手に取るものだった。ディオスの目はこれらを研究者として眺め、一方でありのままに感じようとする心を縛ることもなかった。草原という一つの面の中には、個の連なりが隠されている。それはきっと何かと"集団"という言葉で一括りにしようとする自分に、啓示が与えられているような気がしたのだ。たくさんの葉の縁を彩る鋸歯と、細かな葉脈にやさしく触れる。


もう一度空を見上げると、薄い白雲のそばを高く飛び去って行く鳥の群れがあった。隊列を組む彼らが向かうのはアクエレイルの方角だった。胸をうつ想いは、郷愁というのだろうか。そう思うと、あの男を見送ってから永遠に胸を焦がし続ける想いがまた所在を主張し始める。いつもアクエレイルで待つばかりだった身が、今は外に出て、彼と同じ空を見ている。巡礼の中で彼は何度足を止め、空を見上げたのだろうか。何度この身を胸に抱いてくれたのだろうか。


「おーい、無視しないでくれよ。頼むよディアス」

「……面倒に巻き込むつもりなら行かない」

「そんなことないよ! 頼むって!」


あいつならきっと背中を押すだろうと考え、ふとひとり、鼻で笑う。いつの間にか心の中で足しげく通う場所がある。その場所を作った自分に笑った。「わかった、わかった」片手をあげて返事をすると握り拳を突き上げて喜ばれる。大袈裟だなぁと声をあげて笑う。舌の上に乗せた郷愁もそのうち融けていった。




彼女が口にした瞬間まで、その名はトリアスの記憶の埒外に置かれていた。好む好まざるとに関わらず、救いを求める信者に恵みを与えることは教会の教義に添ってのことである。


恐るべき現実がふりかかった男に手を差し伸べたことは事実だ。その過程で、さまざまな禁忌を侵し、ねじ伏せ、協議の枠組みの中に納め切ったこともまた、彼女が語った「窮地に陥った男を助けた話」と符合する。しかしこれらの行為は、"施し"の範囲であり、過度に象徴的意味を求められても、それまでである。男の物語の中でどのように脚色されたかを詳らかにする気はないが、不幸な男を助けるために奔走したのはトリアス一人ではない。


対する三人娘は、埒もないといった空気を目敏く感じ取った。その看板である美しい相貌に異なる表情を乗せる。


「神父様。お食事はお済みかしら。私達の料理はとっても美味しいって評判なの。まだ煙草はお吸いになるのかしら」

「えぇ。なかなか止められなくて」

「嘘つきね。そう言って止めるつもりなんてないんだから」

「これでも苦労していますよ。煙草は料理の味もわからなくなるといいますし、発育も妨げますからね。この通り」


彼女たちはからからと笑う。いかにも物慣れた空気が麦餅の香ばしい匂いの中にただよう。






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