111 贅沢と餓死と、
「バティストン、贅沢を言ってはいけない。君は既に対価を得て、今後もさらに得ることになる。教会への嫌悪から、息子を対価に私に取り入る胆力を、私はいたく感心している。君は君自身にのみ極めておおらかだった」
時ならぬ鐘の音が鳴り響いた。正午を報せる中央区の鐘楼でさえ、バティストンの脳裏に留まっているものを押し流すことはできない。
大主教の認識は正当だった。今日に至る道程は、一人の子供を盾に教会に取り入ろうとする商人が敷きつめ、整えたものだ。今更その趣旨を覆すことはできない。
「速やかに立ち直りなさい。まだ話は終わっていない」
打ちひしがれている。拳がひとりでに震えている。
海風が窓にぶつかり、青み掛かる硝子窓を揺さぶった。髪を撫でる優しい風が、今日は荒々しく感じる。目に見えないものが自分をなぎ倒そうと窓を叩いているのだと思うと、四辺が薄暗く見えた。
「……確かに、かつてそのように企みました。大主教が長きにわたって抱えていらっしゃる苦心も、わかります。貴方様が心から国を想い、龍下へ反駁もいとわないように、私も心に従って行動をさせていただきたい。ただそれだけです……」
「実りの無い誤った道を選ぶほど個人的な感情を大事にしたいのだな。互いに教会に新鮮な空気を入れようとしている。だというのにこうもかけ離れてしまった」
「……今更遅いものとはわかっています。しかし極めてはっきりとしたことを考えられるようになったのも最近のことです」
悲痛な叫びだった。意味のないものだと端的にわかる文化的な悲鳴をあげている。
大主教は決して大声をあげず、笑顔を崩さない。そうすることでバティストンの情感の領域を押し留め、暴発することを防いでいる。
理性的に振る舞うことだけが残されている道だった。大主教の用意した道を踏みしめているのだと今頃気づくことになる。いつから、と自分に問う。最初から、と自分が答えた。
「濫觴の民の出自を知っているかな」
らんしょう―――、バティストンはうつむいた項を持ち上げ、思考を働かせた。少なくともこれ以上論鋒によって切りこまれることは望んでいなかった。
「説話…程度、ですが……」
懸命な言葉選びに躍起になっているバティストンと違い、大主教は立ち上がると窓辺で背中を見せた。
白服の長い裾にたゆたいが乗り、徒列を見下ろすように後ろ手に生まれた指には、錫杖を握る敬虔なる重みが微細に刻まれている。
「にんげん―――文字を持たない民族の物語をしよう。彼らは角も爪も鱗も持たず、産毛だけの貧相な体の種族だ。特に興味深いのは、食べたり飲んだりする行為には特別な危険が伴うと考えていたことだろう。魂は口から飛び出し、または悪霊によって抜き取られると怖れて、常に顔を布で覆っていた。彼らは体から魂が離れないようにあらゆる措置をとり、魂の入れ物である頭をあらゆる種類の危険から守った。そのため他者の頭に触れる事、あるいは頭の上を通り過ぎることは冒涜とみなし、これを破った者は誰であれすぐに殺した。奪われた魂を移し替えれば、元に戻ると信じていたからだ。彼らは種族の中でも殊更女を大事にした。女の魂は特に脆く弱い。他者の目に触れないよう面を被せ、家に封じ、魂が抜き取られないように守り続けた」
杯が鳴る。甲高い音がした。喉を潤すバティストンを大主教は一切振り返らない。
「彼らは神を食した。その顔を、翼を、身体を。この破滅的な顛末は軽蔑の念をもって伝承されているが、彼らにとっては聖性な血肉を取り入れる儀式でしかなかった。それにより取り戻したい魂があった」
「……けれど神はそのせいで消えた、のでしょう」
着古し、けば立つ袖で顎を拭う。
「そうだ。神の御力が大地に融け、次の命として我々が生まれた。神が愛した獣との"合いの子"。翼を、爪を、鱗を、耳を持ち、支配者の系譜を混ぜ合わせた者。そして、神を食らった種族は姿を消した。けれど滅びたわけではない。ごく稀に、彼らは生まれ落ち、被造物の出帆を見送る影の中に現れる。これまで彼らに関する文献は秘匿され、教会でも限られた者に口頭のみで伝えられてきたが、開示が制限されているわけではない。彼らは必ず存在し、ある選ばれた場所に立つ。教会は―――龍下は、彼らに相応しい儀式を望み、与えた。今生の濫觴の民はたった一人。女だ」
窓辺から離れ、視野の中央に青褪めたバティストンを据える。目を細めて彼は続ける。
「女は穀物の生育を早める力を持ち、豊富な理力と美しい容姿を兼ね備える。対して男は理力を持たず、強靭で、命を刈りとることを得意とする。これらは神殺しの際に面をつけなかった男が被った罪であり、女が免れた罪を表している」
「息子は………」
「濫觴の民は教会に奉仕し、民の為に命を捧げねばならない。彼らは神殺しの罪に後続するものとして、旅路につく。濫觴の民の巡礼を見た事はあるかな?」
「いいえ、いいえ」




