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109 即興する脳と、

大主教の所作は上位層と面識のあるバティストンの目にも、殊更美しくうつった。組んだ指先を持ち上げる動作ひとつ端正で、その口から紡がれる説諭には多くの者がしてもいない罪を懺悔するのだろう。


バティストンもまた、今すぐに床に手をつき、地べたに座らなくてはならない気持ちになっていた。両者の間には透明の壁があり、実際は対席しているのではなく自分だけが透明な檻に隔離されているのではないかと錯覚してしまう。浅黒い肌の大男が高級で窮屈な服を着て、長椅子に浅く腰掛けているのだから、見せ物になっている自覚はある。


大主教と一介の商人では均衡など図れるわけもない。壁際で侍る無表情の従者らは、教職者でもないただの商人が大主教の時間をいただいていることに対し、本当は苦虫をかみつぶすような顔をしたいのだろう。彼らに視線を合わせてもらったことは一度もなく、頬に乗る冷淡はいっそ清々しい気さえした。


バティストン自身も分不相応ということはわかっていた。こうした定期的な談話はこれまで何度か繰り返されているが、互いに悪意を秘めてもいないと言いたげな顔で、仕事の話や息子の話に興じては上滑りする時を過ごしていた。

しかしそれも今日で最後となるだろう。バティストンは渇いてひび割れた唇を擦り合わせる。豪奢な調度品の溢れる部屋で血に赤く照った舌が口腔に引っ込む。生々しいバティストンの生がまばゆい醜さでもって広がる。見るが良い。表立って罵れもしない癖に。そうして鼓舞することで、もう二度と来ない今日を乗り切ろうとしていた。


「今迄大主教にお話しなければならないと思いながら過ごしてきました。自分では言えない事だと思っていましたが、この際お話させていただきます。息子は来節十五になります。齢十五を迎えるその時に息子を教会にお渡しするという約束を白紙に戻していただきたいのです」


目覚めた瞬間から考えてた言葉だった。ようやく音となったものが耳に届いても大主教は恩知らずと罵ることもせず、ただ穏やかに澄んだ瞳を向けてくる。


「理由を聞こう」


バティストンは腰を浮かし、素早く息を吐いて再び腰を落とした。尻の具合を整え、膝の上で拳を握り、無意識に食いしばっていた口を意識して開ける。


「家族で海に行った時の事です。都市を出て西へ、振り返れば西門が見えるほど近場に見通しの良い浜辺があります。水深が浅く、砂が細かいので妻は赤子の足を小さな波に洗わせていました。その時、息子は少し離れた場所に立って……空と海の境をじっと見つめていたのです。後ろでは談に興じる妻の声と赤子の楽しそうな声が……けれど振り返らなかった。じっとどこかを…何かを一心に見ていました。私は思わず拾った桃色の貝を押し付けるように渡しました。途端にレーヴェはぽろぽろと泣きだして、とても悲しいというのです。訳もなく悲しいと。私は何を言うべきかわからなくなりました……きっと本当の父や母を求めているのだと感じたのです。見当はずれではないと思っています」

「実のご両親については何の情報もないと以前報告を受けた。変わりは無いのか」

「はい。今でも変わりません。けれどその時、もしかしたら異国の出なのではないかと思ったのです……」

「バティストン」


大主教の声色が微かに低くなった。バティストンはすかさず首を振って否定する。


「いえ、我が国と隣国との関係を息子と関連付けるつもりはありません。私は子供の孤独を慰める方法を模索したいと思っているのです」

「家族では慰めにはならないと?」

「言ってしまえば、そうです。私の時代は今よりも酷く、親の顔も知らずに生きることは普通のことでした。それは私自身、探求や愛情に興味がなかったからですが、私と息子は全く別のものであり、必ずしも同じ道を辿らなくてもいいはずです。幸いなことに、私には自由にできる船があり、隣国との交易で培った伝手がある。望むものを与える事ができるのではないかと思っています」

「私の前では元気な様子を見せてくれるが、聡明に見せた心の裏に孤独があると貴方は察している。そういった感覚は貴方が私の前に現れてから実に早く至ったような、また遅くもあるように感じる。それが親に成るということなのだろう。ならばバティストン、もう一歩踏み込むとしよう。異国を訪ね、両親を探し出し、あるべき場所に帰そうと考えているのかな」

「はい……充分に検討し、できるだけ多数の人に逢い、とにかく膨大な計画になるとは思いますが」

「計画!」


大主教は口元に手をあてがい笑い始めた。余裕のある笑い方だったが、それが却っておそろしいものに感じた。


「バティストン……貴方が彼に果報を与えようとしていることは理解した。では私も"宿願"の話をしよう。私はこの都市の大主教の座についてから、色々な面で戦争と平和について考えている。利害の不一致によりしばしば起こる闘争の矢面に立つ我が都市の発展と幸福を常に願ってきた。侵略を受け、最初に命を削るのはいつも我々だった。そうした割の合わない苦労を背負わされても、アクエレイルにいる者どもは龍下が述べられた「おことば」を免罪符に、時間の許す範囲で闘争に向き合い、感想を述べあうことに終始する。戦争よりも食事が優先され、宙に浮いた議題は空転し続ける。窮乏している国民の困難は、アクエレイルに届く前に薄れ、引き延ばされ、同情の道具に成り果てる」






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