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108/413

108 過行くものと、

湾より少し離れた海上に小さな岩山が突きだしている。二つのこぶのくぼみに建つ教会に一本の桟橋が通じている。半ばで振り返れば、密集した都市部を臨むことができる。

大地の縁まで敷き詰められた家屋は激しい火の勢いのままに大海に到達し鎮火されているようにも、苛烈な火で海を陸に変えようとしているようにも見えた。


かつてこの橋の上から、夜のしじまに融け入る街を眺めていた。生活に暗く圧し掛かってくる毒をしばしば同じ毒をもって制しようとしていた日々は思い出すだけで痛みを伴う。他者に多大な犠牲を強いながら、時にその命を塵の様に扱い、街の外に捨てた事もあった。

何しろ当時は何もかもを蹴落とすことでしか毒蛇の巣窟から逃れられないと思い込んでおり、それは確かに真実の側面ではあった。生きていくためにといえば安い言葉だが、他人を気に掛ける気持ちは道徳と共に捨てている。


視線をうつすと雑多な石屋根が途切れ、風よけの木々の向こうに豪華な邸宅の屋根が見えた。あの通りに邸宅を構えてから死に物狂いで働いてきたが、追い求めてきた富と名声と子宝のうち、二つは手にすることができた。桟橋の先に進めば残りの一つへ手が届く。しかしバティストン・フロムダールは足を止めていた。再び桟橋を進むまで空高く飛び去って行く海鳥を見ていた。


海の先端に座す教会は塩害という大きな犠牲を払ってもなお、美しさを衰えさせず、あの日の面影をほとんど変えぬまま佇んでいる。例えば画家が寒空の下で砕け散る波と海上の孤独な教会を画布に描き、薄暗い死の色で空と海を塗ったとしても、爪先から凍り付くような恐怖をひとつも感じることはなかった。


バティストンは静かに教会の扉を開いた。高い天井の講堂は静寂に包まれていた。経済的に困窮している者は都市内の教会に駆け込むため、饐えた臭いの元となる浮浪者はおらず、海風と蝋燭の煙が祈りを捧げる信徒たちのあいだに漂っている。

瞼を閉じた横顔はみな一様に穏やかで、その裏に不満や怨嗟があるのかは窺い知ることはできない。


足音を控えながら身廊を進むと、長椅子の途切れるところに神父が一人立っていた。彼の誘導に従い、側廊を出て柱廊を横切る。こぶの結節点を利用して作られた中庭は色彩の強い花が植えられていた。蕾は膨らみ、今にも綻びそうだった。


「こちらでお待ちください」


通い慣れた一室に通されると、神父はいつもと同じ所作で音もなく扉の向こうに消えた。用意されている茶器一揃えに手の甲で触れると、温められていることがわかった。最初にこの部屋に通された時は緊張のあまり茶器を持つ手が震えたものだった、と考えたところで、昔を思い出して比較してばかりなのは加齢による悪癖かも知れないと鼻先で笑う。否定する言説が出て欲しいような、加齢を受け入れてもいいような、紅茶を注ぎながら己の心を探る。


一口目を含んだところで、扉が開き数名の男たちが雪崩れ込んできた。扉を押えるもの、書類を持つもの、装飾の煌めく上着を捧げ持つもの、そして大主教が入室した。穏やかな顔で何かを指示し、それを受けた側近がそばを離れた。

その間バティストンは直立の姿勢で声を掛けられるまで待っていた。彼らは部屋に先客がいたとしても空気のように扱い、自分の仕事に没頭し、羽ばたくように去っていく。


すべての者が頭を下げて退室すると、ようやく大主教はバティストンの方を見た。

バティストンは彼の前で片膝を折ると敬愛の挨拶をする。にじみでる高貴さなど無く、礼儀作法はいまだに身についたと言えないが、少なくとも口上を付け加える経験は積んだ。


海港都市を統べるディアリス・ヴァンダール大主教は微笑みながら挨拶を受け取る。―――彼を上席に通し、バティストンも下座に腰を下ろした。


「ご子息が倒れたと聞いた。同情に耐えない。貴殿もこれまでの努力が無駄になると思うと気を揉んだことだろう」

「身に余るお言葉をいただき恐縮です。手配していただいた医師が良かったのでしょう。すぐに快復致しました。本来なら直接お礼を言うところですが、咳が出ていたため帯同を控えました。出掛け際、声を掛けましたらディアリス様にいただいた天気図を広げて勉学に励んでおりました。次にお逢いする時には重ねて感謝をお伝えしたいと」

「待とう。天気図を活用してくれているとは嬉しい。この都市に生きる男はすべからく海に出るべきだと私が言ったのだ。海の果てを確かめるという気持ちでいてもらわなければならない。しかし子供たちとの団欒は楽しい事が多いだろう」

「はい」

「何か感慨深かったことはあるかな」


白磁の茶器が差し出される。いつの間にか入室していた馴染みのない神父が給仕をしていた。バティストンの茶器も入れ替えられる。

杯の中に微かに入った茶葉を見ながら、記憶をたぐる。


「……印象に残る思い出は色々ありますが……赤子のための詩歌を編んでくれました。夜中に激しく泣く時に、詩歌を子守歌にしていいたのです。その後、父母の健康を願う詩もうたってくれました」

「詩歌か。いずれ廃れゆく文化だが、人の営みに文化の香りを焚き染めることにおいては、並ぶ者がいない。それもまた詩歌の魅力なのだろう。公務の余暇に添えて欲しいものだ」

「……ディアリス様、私からも質問することをお許しいただけますでしょうか」

「許そう」






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