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リリィ 思いつくままに書きとめたささやかな覚書と一切の崩壊。無力な愛、ひとつの不幸、ただ愛を愛とだけ欲したある価値の概念  作者: 夜行(やこう)


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107 月光を追い求める人と、

「……お嬢様、お召し物を」


男は外套留めを外し、さらに厚い衣を一枚脱ぎ捨てた。遅れて野営地を照らし始めた朝焼けから隠すように、生白い肌に掛ける。道徳的な行為は憐憫を包み込み、少女の心に訴えかけた。


泣き濡れた顔をあげた少女は決して視線を合わせない壮年の男のつむじを見下ろした。どこかで逢ったかしら。訝りながら、今度はくずおれて波打つ白布に目を移す。横たわる修道女はどうしてそんなにもぎゅっと目を瞑っているのだろう。首を傾げてまた瞬く。それからゆっくりと見慣れぬ馬車と、最後には自分の指先から唇のふくらみまでも、姿をひとつずつ確かめていった。


少女が己の魂に触れているあいだ、その美しい顔に次々に思い描かれる感情を遮ることなく、男は下を向き続けていた。美しさを正面から眺めるという罪を憚るように、土砂降りの雨の中でも、泥の上でも、彼はずっとそうしてきた。しばらくすると、曖昧だった空気が焔のように燃えるのを感じ取った。睫毛にたゆたう屈折が少女を変化させ、記憶を押し戻していったのだとはっきりと感じ取る。それは男にとってただ一人の令嬢が舞い戻った瞬間にほかならない。男は自らがまとう衣が、神をおもねる無彩色のもっとも明るい色から、彼女が神を降ろしたあの湖のような深い青にうつりかわるのを感じた。紺青は男が持つ唯一の矜持だった。


少女の体に行き渡った重みが、物憂げな眉を形づくる。肩に乗る見慣れぬ衣裳の感触を確かめると、少女は俄かに指を離した。


「………そうだわ、夜まで時間はあるのかしら。ねぇ? 妙な事を伺うかも知れないけれど、ここはどこかしら。ロラインのおうちへは日が暮れる前に戻りたいの。お兄様と夕食をご一緒する約束があるのよ。ねぇ、お兄様はこちらにいらっしゃるかしら」

「…いいえ。スベルディア様とトリアス様は只今お留守にしております」

「そうなの……どうしたの、どうして黙っているの。貴方も私に腹を立てているの?」

「いいえ。そのような事は生涯疑うに及ばず」

「だって貴方のお顔を拝見しているとお父様のように………そうだわ、お父様のお体が快くないとおっしゃっていたの。私、お花を摘んでこなきゃと思って………お薬になるお花よ。バートリはどこ」

「おそばに」

「私のバートリ、お兄様には内緒にしていて。お父様に親愛の証を差し上げるのにお花に触れたと知れば、お心を病んでしまうかも知れないわ。だから内緒よ。ねぇ、いい思い付きでしょう」


跪いていた男――――バートリは痛みに歪む顔を隠しながら、はいと答えた。

少女はただ素直にはいと言うだけの男を面白くないと言いたげにじっと見つめていたが、遠くにある立樹が自分の知らないものであるという寂しさを心にしばしば泳がせて、不意にこう言った。


「偉いと思うわ」


土を見ていた男は息を飲んだ。たまらず顔をあげると、象牙のような白い横顔が遠くを見つめていた。その瞳は世界の果てにいる自身を見限り、何もかもを平坦に見下ろす色の無いものだった。


男は今度こそ離れまいとにじり寄った。

男物の衣を肩に掛けた少女は押し留められぬ哀切を讃えた瞳を男に向けた。二人は見つめ合う。飛び去った鳥の残響をいつまでも探し求めるような静かな目が、取り付く島もない仮面の顔に貼りついている。眼差しを絡みあわせても、男の熱情はかけらも届かないことははっきりとわかっている。彼女が一心不乱に息を切らしていたとき、助けを求めて伸ばされた手をとることができなかった。けれど少女は微笑んだ。こゆるぎもしない美しい教養の上で権威や理性に犯されてもなお。胸がしめつけられる。男は少女のほかに何も考えられない。


「いつも私のことを守ってくれて感謝しているわ………こんなにも穢れて守る価値もないもののために、ここまでしてくれるのは貴方だけよ。でも私は貴方を困らせてばかり……」

「どうか……お尋ねください」


少女は驚いてバートリを見つめた。知る限り、男は意味のないことを口にしない。純粋な驚愕が瞳に乗り、微かに傾いた首に柔らかい髪が滑り落ちた。

バートリは目を細めた。物珍しげに瞬いた少女の顔は歳相応の幼さを感じさせた。少女は男の気持ちをはかろうと眼差しを黙して見つめ返したが、献ずる心に一分の狡猾さもなく、ただ己の胸を刺し開き、甘やかな鼓動を打ち明けているのだとわかった。


「お尋ねください。どこが、好いのかと……」

「どこが……」


言葉を飲み込んだ少女は息苦しさのあまり叫び出しそうになった。喉を塞ぐ愛は多くの矜持を傷つけ、犠牲にしている自覚のある少女を追い詰める。彼が捧げようとしているものを、少女は受け取るわけにはいかなかった。男もそれをわかっている。

愛に痛ましいほどに縛り上げられ、元の形を失ってしまった男。それを強いたのは自分なのだと知っている。

それでも少女は男の希うままに応えた。それが彼女がさしだせる唯一の返愛だった。


「私のどこが好いの……?」


バートリは力強く、たった一言を返した。


「すべて」


「あぁ……」


男の血濡れた愛は、少女を断崖へ誘う。

黒い岸壁に砕け散る波は、飛沫を断崖の上にまきあげる。海原は煌めきながら揺れている。もしもここから飛べば、二人の命は容易く泡沫のなかに飲み込まれるだろう。少女は身投げするさまを想像する。拒絶へ向かう脚が、岩から離れ、空に抱かれるさまを。けれど幻の中でさえ願いが叶うことはなかった。男たちの手が腰を、腕を抑えて離さない。真っ赤に残った痣は白い肌を際立たせた。そこにあるのは美しさなどではなく、痛み、ただそれだけだった。







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