106 貴方という月光と、
ハリエットは美しさの中に囚われた。
雪のような肌、正しさの極致にある整った顔立ち、甘くとろけるやさしい眼差し。細い手足に静脈の青が透けて、潮騒のように心に広がる。それだけではなく、およそ人の生というものを統べるような匂いが入り混じっていた。
「ねぇ」彼女が言った。押し黙っても、誘うように開かれた心の隙間に舌を這わせ、彼女はさらに問う。
「この赤い花をくださったのは貴方?」
柔い肉体がハリエットの上に圧し掛かった。白布を押し開き、花弁の中から生まれた可憐な人は目を輝かせ、気後れする風情もなく、小鳥のような鼓動をきざむ胸にハリエットの右手を押し当てて笑った。
「怒っていないわ。ここに花を飾ったら綺麗だと思っていたの」
なだらかな丘のうえを滑る手のひらの感覚は鋭く、血の花だけを意識するように気を張る。
やがてハリエットは目の前にいる少女が、自分と少しの背丈しか変わらないことに気づいた。面紗の下で口を噤んでいた少女は未成熟で、波一つない凪だった。けれどいまハリエットの手を乳房に招き、たえず太陽の方を向くような立ちのぼる色気に触れさせるのは少女ながらに成熟した躍動があった。
熱蝋に侵されて融けていくような心地だった。真っ赤になった顔を左右に振るも、少女は細い指を顎の下に添えて、しっかりと舌を絡ませる。熱心のあまり、胸元に落ちる髪がくすぐったく、脳髄を蝕まれて引き攣るような声をだしたハリエットを少女は快活に笑った。匂い立つ香りを前に泣くことだけが許されている。
腰帯はとうに解かれていた。狭い馬車の中で二人は行儀悪く倒れ、顔を近づけながら同じ場所の空気を吸いあう。
「むかしね、私が虫を嫌いなのだとお兄様は思っていらしたの。たしかに指の上に蝶がのった時はびっくりして手を払ってしまったのだけど、まったく別の事を考えていたからなの。悪い事をしてしまったから謝ったのよ」
少女は胸の奥底から笑みを引き出し、うっとりと微笑んだ。
瑞々しい若さからこぼれた煌めきがハリエットのこめかみから頬にかけてに走る細長い傷口にそそがれる。光が二人の境界を美しく覆う。
「それからね、私がお庭の散歩にいくたびにぎゅっと手を握ってくださるようになったの。それで、どこへも行かないでねって優しい声でおっしゃるの。私はお返事をさしあげる前に考えたわ。本当はなにひとつ怖いものがないと知ったら悲しませてしまう。心根の綺麗なお兄様、私になんて勿体ないくらいなの。だから本当にしてさしあげたの」
瞼の裏に幼い光景を浮かべながら、少女はハリエットの顔を割る傷に寄り添う。
ハリエットは痛みとも悦楽とも判別つかぬ蠱惑になすすべもない。余喘のように、ごちゃまぜになりながら自堕落に喘いでいた。唇は激しく上下し、ただ一時の歓びに身を委ねる。
「それからずっと遠くから見ていたわ。花盛りのお庭、風に乗って届く花香を胸いっぱいにすいこんで、一心に覚え込もうとした。記憶に残る柔い花弁をなぞる指の感触だけが私を慰める……ほら、こんなふうに」
超越した悲鳴が漏れた。板張りの冷たさに背中を焼かれながら、天雷に身をよじらせる。決して終わりのない無邪気な誘導だけが雪崩れ込み、ハリエットは少女のものになっていた。
「そんなに顔を背けちゃ、いけないわ」
「でも……」
「私をご覧になって。そう、そのまま目を閉じるの……良いと言うまで、あけてはだめよ」
少女は女の目元に手のひらを押し当て、睫毛の細かな震えがなくなるまで待った。
「……私の為だと言いたいのね」
少女は上肢を起こすと、王座から使者を臨むように戸外を眺めた。
手のひらの下で反応を見せる女を美しい檻にとどめたまま、扉の前に跪く男に問いかける。その問いかけの答えは既に手の内にあり、意味のない問答だったが、それでも少女は確かめずにはいられなかった。男の袖を捕まえてはしたなく問い詰めたくもあったが、散々篭絡された心に湧くのは諦観だった。男の下にこと切れた有象無象が小道を塞いでいる。獣の死骸に成り果てたものから、濃い血の匂いが生じる。
かたわらに水桶を侍らせ、頭を垂れていた男は岸壁で波を受ける大岩のように堂々とその声を受けとめる。白い外套が水面を流れる沈水葉のように血だまりの中でたなびいている。少女は眩暈を覚えた。
男は頭を下げたまま、冷然とした声で答える。そ知らぬ顔で死を引き連れながら。
「貴方様の与える神秘がこうも薄汚れた場所で授けられていると知れば、龍下でさえ世を儚んでしまわれることでしょう。貴方様がまとわれる香り、お座りになる高貴で美しい忘却はこのような逼塞したものではあってはなりません。これは許されないことをしました」
「それでその方を殺したの? 彼が私の肌を見たというだけで? 貴方は胸を張ってそう言うの? いまお耳が動いたわ、後ろ暗いのね。でもちっとも心配はいらないのよ。私の為なのね。この世のすべては私のせいなのだから。残酷なものを絶えず引きつけてしまうのだから………だからその方の命を奪ったのは私なのよ」
少女は興奮しながら首をそむけた。哀しみの影が唇の端に生じて、次第に世界は翳り始めた。憐憫が天を覆い、少女もまた薄い両手で静かに顔を覆った。きゅっと縮めた肩が、傷つき震えていることに男は顔を顰めた。




