105 覚醒と月光と、
「待て!」
男が言う間もなく、ハリエットはよろめきながら車輪を掴み、勢いをつけて馬車に駆け込んだ。
車内を満たす冷涼な空気はハリエットの喉を引きしぼる。腰をかがめて御白さまに近づくと、何か気怠い空気が生じた。帯締めは乱れ、掻き合わせるとひとつになる胸元の刺繍は食い違っていた。寛ぎとは違う四肢のうねりが眼前に冷たく横たわっている。動揺の形を明確に突きつけられて怯んだ足が板張りの床を鳴らした。
「あ、………あ」
ハリエットの呻きだけが繁殖する。
少女を包む白布は八重咲きの花弁のごとく重なり、中央に平臥する姿はこの世のものではない静謐を孕んでいた。めくれあがった花弁から、宙に投げ出された腕をゆっくりと横たえ、顔を覆う面紗に手を掛ける。いけない。だめ。でも、呼吸をたしかめないと。命が――――どくり、どくり、血が逆流するように巡っていた。
面紗をもちあげる。柔らかそうなあご。その上に、赤い絵筆を優しく滑らせた唇が鮮やかに浮かび上がっていた。ハリエットは打って変わって俊敏に動いた。
耳を傾けて呼吸を確かめると、弱弱しい吐息が産毛を撫でた。細い手首を握るも白手袋の上からでは脈動を確かめる事ができそうにない。上気した頬と湿気のある後れ毛に妙な空想が湧く。熱がおありになる。とても息苦しいのではないだろうか。首を覆う詰襟を寛がせては不敬にあたるかも知れない。龍下より賜った言葉がハリエットを鈍らせる。やるしかない。直接お手を触れるしか―――
その時、ハリエットの頬に粘性のある何かが伝った。汗が首筋に流れ、鎖骨のくぼみに留まるのだろう。ハリエットはそう感じていた。しかしその一滴は肉体から離れ、ハリエットの滑稽さを嘲笑うように、まざまざと白布の中に落ちた。
血。流れ出たばかりの生々しい赤。
滴った血が、無垢な雪原に赤い染みをつくる。
どくん、鼓動が大きく跳ね上がる。「――――――」全身から血の気が引いた。
「湯と清潔な布だ。具合は――!? なんだ!!?」
水桶を揺らしながら戻ってきた夜番は馬車から漏れ出る強烈な光に、桶を取り落とすところだった。
夜番の男にとっては先程の光景は不快なものでしかなかったが、修道女や修道士などが通りすがる不幸に弄ばれる光景は、風邪を引いたのと同じ程度で「黙って過ごせばいい」ものだった。
あのような高位から与えられるものは"黙認"しなければならない。何故ならば上衣の色によってまとめられ、枠の中で生きていかねばならない我々のような卑賎の者は、上位を相手にする時、どんな理不尽を押し付けられても、言葉の暴力を受けても、実力行使も甘んじて受け入れ、土に頭を擦りつけておかなければならないからだ。屈強な執行官に殴りつけられた女が転がり、斜面の草に埋もれても、痛ましいと思う気持ちも通り過ぎて、厄介ごとを起こしてくれたなと見ていた。冷淡といえばそうなのだろう。しかしこの世では男であろうと女であろうと、最期を迎える時に悲惨な生涯だったと思わない者などいないのだ。執行官に追いすがるなど、自ら命を捨てるようなものだ。
「なんと……君は、帯を………そんな修道女が…」
―――在ってはならない。それは正常な社会からの逸脱だ。
しかし男は言葉を飲み込んだ。全身を照射する光に圧倒される。
今まさに女は暗い座席の前に膝をつき、必死に祈っている。古語だという理力の文字が女の周囲に浮かび、列をなして回り始める。血に濡れた髪が、赤く染まった輪郭から離れ、呆気にとられている男の前で妖艶に揺れた。
風を吹き上げていた美しい光の波が落ち着くと、女は膨れ上がった瞼をぐっと見開き、真っ白い布に顔を近づけた。全容は外から覗くことはできなかったが、白布の裾からわずかな皺もない女の脚が見えた。長い靴下に覆われ、肌は一片も見えなかったが、なだらかな肉のうねりが白地を歪めている。気を取られたあと、はっとして背中を向けたが、男の頭の中で触れられる程に幻はこまかく浮かんだ。
「お、お、御白さま…? 御白さま、お体どこか苦しくありませんか、お熱は…空気はお吸いになれますか…?」
「………………」
「良かった。良かった。あぁ、どうか罰してくださいませ。ご衣裳を損なってしまいました……この無能をいかようにも罰してくださいませ…」
「………………」
「あぁ、申し訳ありません、申し訳ありません。あぁ、そんな、あ、あ、どうなさいました……なりません! 触れてはなりません!」
「………………」
「あっ…!」
女の拒む手を頑なに退けて、白布の中から伸びた指先が痛んだ頬に吸い付く。女は「御白さま」と吐息のような声を出し、肩を押し留めようとしたが、肌蹴た上衣よりのぞく若い美しい肉体に狂おしい思いに駆られて、どうすることもできなかった。白布を被った美貌は膝を進め、面紗がはらりと床に落ちた。
「貴方にも祝福を」




