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104 遅い挙手と月光と、

天幕に(彼なりに)控え目な主張がこだまする。ひどく不愉快そうな顔を露骨にさらし眉を潜めたディオスに、ポーレは肩を震わせて笑った。目を閉じて仰向けにはぁと息を吐く。その時、顔を片手で覆うディオスの後ろに女が立っていることに初めて気がづいた。

女はあやうい立ち方をしていた。並ぶ寝台の合間が、ふしぎと狭いというように肩を狭めて俯いている。まるで桟橋に等間隔に立つ杭のように静かに、足元にぶつかる冷たい波を見ている。

女のそばに椅子があった。木製の小さな丸椅子が誰にも腰かけてもらえず、手垢のついた手拭いが落とされたままの姿で乗っている。(淋しい女だ…)ポーレは主観のままに暮色の眼を女から外そうとした。しかし腹の上で重ねられた指先の下で、爪を擦り合わせる陰気な仕草が印象に残った。無用な開墾かも知れないが、女に向かって「何かあれば言ってくれ」と声を掛けた。何かを言いあぐねているように見えたのだ。それもまたポーレの主観が成したものだった。


自分に告げられたと思い、ディオスがきょとんとした顔で固まる。助祭は視線を読み、立ち位置を変えて前に出た。彼の背で栗毛が馬のたてがみのように揺れる。

女はびくりと肩を震わせる。助祭に睨みつけられたのだろう、顔を逸らした。


「あ、あの…いえ、………その、ご歓談中のところ、大変…た、大変申し訳ありません」


弾かれるように振り返ったディアスが小さく何かを言った。思考ののち「ハリエット」と言ったのだと理解する。ハリエット、名か―――修道女は鼻先にひっつく前髪の隙間から、怯える眼差しをのぞかせている。

「何かと聞いている」私の助祭が再度問い質した。すると彼女は震える指先を持ち上げ、何度か躊躇いながら時間をかけて「その石」と言った。


「……その石……私の、だと思います……」

「は?」

「すみません……すみません」






山裾に帯のような雲がかかっている。日の出前、高い空が少しずつ色づいても低い雲に遮られ、朝焼けは野営地までは届かない。薄暗い朝は霧の中で始まっていた。


複数の天幕は静まりかえっていたが、毛布にくるまった夜番をあたためるように篝火だけが燃え続けていた。夜番の男は見回りにいった友が野営地をめぐっている合間に、火のかけておいた芋をじっと見つめている。物寂しくなると時折枝で熾火をつつき、崩して遊んでいた。「くあ」と大きなあくびをかみころそうとして失敗する。瞼をぎゅっと瞑り、眠気を気合でふきとばした。もう少しで友が帰ってくる。そうしたら今日の役目は終わり。大食らいの彼の事だから朝食前に何か腹に入れたいと言い出すだろう。ぱちり、爆ぜた薪が崩れる。芋はもうすぐ食べ頃だ。


ふと、ハリエットは底冷えした刺々しい空気の中で目を覚ました。馬車の中でくず折れるように横たえていた身を、座面に手をついて起こす。胸元に垂れた結び髪が、先端を踊らせるように跳ねている。結び目をほどきながら、冷え切った硬い髪をもみこむ。「はあ」と息を出す。白くなるかと思ったがそこまでではないらしい。


不意に扉が叩かれた。ぎくりと身震いをしたハリエットは息を殺して寝たふりをしてやり過ごそうとしたが、すぐに硝子の下部をもう一度叩かれ、先程よりも強い音が鳴った。夜番だろうか。慌てて身なりを整え、目隠しの布を片側に寄せて外を覗く。結露を指先でぬぐうと、見つけた白い姿にハリエットは慌てて扉を開いた。


「ど、どうなさいました…! こんな早くに!」


白に橙色の差し色。執行官が立っていた。


「声を落とされよ。そなたが心配するような事ではない、出なさい」

「は、はい…! ですが、あの…」

「出なさい」


短靴をつっかけたまま外に出ると入れ替わるように真っ白い布を抱いた執行官が中に入った。

ごくりと唾を飲み込みながら覗きこんでみるものの、執行官の背中に隠れて何も見えない。男はすぐに踵を返したので、ハリエットは思わず追いすがった。座面に無造作におかれた白い布の端から落ちる御白さまの手は、微動だにしていなかった。


「御白さまはどうなさったのですか? お体でも悪いのですか?!」

「知らぬ! 話しかけるな」


男は知った事ではないという雰囲気で外套の裾をはらうと、忌々し気にハリエットを睨みつけた。憎悪が乗ったまなこを見て、ハリエットは予感した。(乱暴を、される…!)途端に体が痺れて動けなくなった。逃げなければとならないのに脚は地面に貼りつき、瞬きすることもなく、男を見上げ、ただ時が来るのを待った。男は霧を裂くように高く掲げた手を、渾身の力で振り下ろした。


「何事ですか!」


駆けつけてきた夜番が執行官とハリエットを交互に見た。ハリエットはほとんど草生に沈み込んでいたが、執行官の前まで這い出ると体を丸めて、顔をあげもせず「申し訳ありません」とひたすらに繰り返した。

異常な速度で口走る声に夜番は冷静に言った。


「介入は」

「不要だ。煩わせるな」


夜番はハリエットのそばに駆け寄り、身を起こさせる。


「もう行かれた。顔をあげて。傷を見せなさい」

「は、は、………あの、い、あ、ぇ」

「……うまく口が開かないのだな。何か言いたいのか?」

「あう、うぐ、あ、よ、よ、よろしければ、湯を。桶に、湯を張ってもらえませんでしょうか」


夜番はハリエットの頬に垂れた結び髪をよけてやった。


「…いいか、君は顔を殴られている。これから医療天幕に連れて行く。その様子ではまともに見えてもいないのだろう」

「いえ、いえ、そんな事よりお湯をどうか」

「湯なら天幕で用意してもらえる。頬の傷も」

「違います…! わたしより、お、おっ、御白さまです! 御白さまを暖めて差し上げなければなりません…!」






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