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100 友と月光と、

『教えてください。どうして?』


どうしてそんな事を聞いてくる。どうして? どうして? なにが? 段々と思考が飲み込めなくなって前のめりになる顔を、トリアスは無理やり上を向かせた。

拒まなければならない、けれど頬を挟む手は馬鹿みたいに優しい。


生じた沈黙は長かったのか短かったかわからない。真っ直ぐ見つめ返すこともできず、頬に触れる熱が拒絶の口上を封じる。

堪えられなくなって混乱した頭は一瞬冗談で濁そうとした。しかし代わりに喉をせりあがってきたのは無防備な情感だった。


『きょ、局長の取り巻き、連中が、あ、わ、……私の………研究をぬすんで…、発表、…だれも』

怖くて目を瞑る。鼓動が全身を震わせていた。

『……誰かに話しましたか』

『局長に……でも信じてもらえなくて、とっくに根回しされていて……』


自分の研究さえうまくいけばいいと思っていた。友達なんていらない。上辺の付き合いをそこそこ、あとは自分の事ばかり考えていた。研究を進める事を最優先し、その他はその場限りの間に合わせで済ませて、人の機嫌を見る事もしない。他人との関係なんてどうでもいいと投げ出していた。


トリアスの手を剥がして押しのける。下衣にぽたりと雫が散った。


『ふ、はは、散々、人付き合いを避けてきたツケが……わ、わ、わ、わたし、あ……あ?』


微笑すら上手くいかない。

人の役に立ちたい。研究をして人を救いたい―――健やかに生きてほしい。

それだけを考えていたかった。


研究は他者の名前がつけられ、世に出ていった。成果が褒められ、次に役立つ。それは嬉しい事だった。

局長には「協調性がないからだ」といわれた。集団に馴染めないお前がいけないんだといわれた。振り返ると孤立した俺を誰も見ない。

それから研究ができなくなった。だから、誰彼構わず良い顔をして、仕事を請け負い、過剰に笑顔を振りまき、愛想よく、つまらない話でも大声で笑うようにした。

そうしないと―――生きていけなかったから。皮肉にも関係は円滑にいくようになった。


『ディオス、私のルプス。こちらを見て。いかにも貴人然とした貴方も魅力的ですが、私を口汚く罵ってふんぞり返ってる貴方の方がもっと好きですよ』


瑞々しさが唇に乗り、反射的に呼吸も涙も止まった。

にこりと笑うトリアスは手許から本を引き抜くと、静脈のういた白い手を絡め合わせる。自分の皺の無い手が情けなく、心がすぐに追い詰められる。それでも彼は決して軋む音を聞き逃さず、目尻に乗せた緩やかな笑みをそそぎ続けた。

ねぇ、ディオス――音に敬慕をにじませる、この声が奥底に沁みこんでいく。


『私は日々の生活に兄と妹の二人だけがいれば充分でした。貴方を必要としていなかった。でもこの街に戻ってくると自然と貴方を探してしまうのです。貴方は私に干渉せず、尊重し、縛ろうとしない。それがどれほど嬉しかったか。初めて逢った時の貴方は愛想が悪く無口で、礼儀の知らない兎でしたね。でもそうかと思えば好きな事については捲し立て、止まらなかった。本に囲まれて暮らし、料理はしない癖に舌だけは肥えてる。私の手料理に文句をいいたいのに美味しくてたまらないんでしょう? ディオス。頑固で逸脱を厭わぬ貴方、ずっと苦しかったのでしょう。どうか、すり減った心を預けてください。私はこう見えても人をその気にさせることが上手いんですよ。口は私の商売道具ですから』

『しょうばい……とか、いうな……お前は立派な神父だ。こうやって俺を助けてくれるだろ……』

『えぇ、……そうです。おかえりなさい、ディオス……もっと口汚く、罵倒してください』

『お、おン、おまえ! 雰囲気ぶちこわし、だろうが!』

『ふふ。充分すてきですよ。ほら、もう一度、』


降ってくる影が、


―――ぱちり、


薪が爆ぜる。


「お顔…赤いですよ」

「は!? あんだと!?」

「ひぃえっ!」


気を取られ過ぎていた。ディオスは気恥ずかしさの余り食って掛かってしまったことを(たっぷり怒声まじりに)謝った。ハリエットは篝火を見たまま黙ってしまった男の頬がみるみる赤らんでいくので、体調が悪いのかと心配していたところだった。

髪をがしがしと掻いて奇妙な顔をしていた男は肩を落とした。大きなため息が足元に落ちたが、その中には徒労が含まれていると知っているのはディオスただ一人だった。


「………俺は愛想がなくて無口で礼儀知らずだよ」

「…え!? そんな、どうしました……? え、私は何も言ってませんよ…!?」

「こっちだってなこの顔で好きで兎の耳なんて生やしてねえんだよ! 童顔とか威厳がないとか言われてもどうにもならねぇだろうが!」


勢いに押されてハリエットは「はっ、はい、そうですね!?」と混乱しながらも同意した。


「ちッ……誰かに救われたからって、人をどうこうできる訳がねえだろうが…」

「あ……すみません」

「なんでお前が謝るんだよ……」

「す、すみません…」

「はぁ…違う……違う…例えばだ、海が大荒れだったとする。でもそいつがいれば豪雨も暴風もさっぱりなくなるような奴がいるんだ。俺に煙草を教えてくれたやつは、そんなやつだった」


(海……?)ハリエットは目をぱちぱちと見開き、そのあと遅れて仰け反った。(えっ、何の話をされてますか?!)と赤さの伝播した顔が言う。

言葉にはしていないのにディオスは怒った。


「おっ、お前が煙草の話を聞いたんだろうが。不味くも上手くもない。これはあいつが……いややめだ! その話はやめだ!」


勢いに押されてハリエットは「はっ、はい、そうしましょう!」と混乱しながらも流した。


「……ディオス」

「はい?」

「名前……大聖堂で医生をしてるディオス。覚えなくてもいいが……」

「え、あ! はい! はい! ディオスさん! 初めまして…!!……はじめましてで合ってますか?!」


満面の笑みのハリエットが「友だち、初めての友だち…!」と言ったので、ディオスは頭を抱えた。家に帰りたい。帰って鳥の世話をしたい。そう思うと、心の中で「世話をするのは私ですよ」と言うので、ますます恋しくなってしまった。

二日目の夜がやっと終わろうとしている。






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