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01 美しい夜と、

「何か話をしてくれないか」


それが誰に宛てられた言葉か考える必要もなかった。

頁をめくる手を止めて顔を上げると、丁度振り返った彼女と目が合う。照明を背に受けて白い髪が黄金に輝き、金冠を戴いているようだった。

シャルルは読んでいた本を閉じると革張りの深い長椅子から立ち上がる。にこりと微笑んだ彼女が挨拶とばかりに片手を差し出すので、空いた手で腰を引き寄せながら絡めとった。ふわりと浮いた体はいとも簡単に男の腕の中に収まり、さらには額でぐいぐいと胸板を擦り始めた。


この瞬間リーリート・ロラインは誰よりも可愛らしく、美しかった。けれどシャルル・ヴァロワの脳裏を占めていたのは心配と不安だった。


「ケリがついたか? 随分と頼りない動きだ」

「うん? うん」


「そうだよ」酩酊しているような拙い返答が吐息とともに胸元に触れる。

頬に掛かる髪を耳の裏によけてやると、さらされた白い頬は少し火照って色づいていた。常時理性的な瞳が今だけは甘く溶けている。だがこの薄い体に巡っているのはそんな色気のあるものじゃないと知っている。


ようやく燃料切れになってくれた。シャルルは独りごちる。

何時間働いていただろう。とにかく彼女は脳を酷使し続けていた。

過剰に集中し、寝食すら疎み、ひたすらに打ちこむ。彼女にとって労働は金貨を得るための行為ではなく、リーリート・ロラインそのものだった。だから出勤、退勤、休憩、休暇という概念がない。擦り切れる程くたくたになって初めて、体が根を上げて、脳はそれを無視し、理力で誤魔化し、成果をあげるか、または思考が切りの良い場所を判断し、納得し、ようやく立ち止まる。毎回この繰り返しだ。

誰しも振り返るような美貌であっても、国が地位を与えたがる頭脳であっても、シャルルにとっては手のかかる女でしかなかった。


「立てるか」


前回は気絶したおかげで睡眠時間を確保できた。今回は意識があるとはいえ、口数は少ない。

反応は芳しくない。倒れられる前に抱き上げた。重心が預けられてもなお軽い体に、シャルルの眉間に皺が寄る。内臓が入っているかすら怪しい。流動食と理力で誤魔化された体は栄養不足を服の下で警告している。

彼女は自分に興味が無く、傾いだ体調を簡単に復調させる理力術を持っているから、こうまでも容易く己を酷使してしまう。もしここで服の下を暴き、骨の浮いた体を見せつけても彼女は薄く笑うだけだろう。いっそ入院をしてくれればいい。シャルルは寝台で眠る女を想像したが、不意に何かを蹴飛ばしたせいでそれは霧散した。


作業台の下にすべっていった何かを追って、少し体の向きを変える。影の中で倒れていたのは女物の履き物だった。ちらりと視線を移せば素足が無防備に放り出されている。これは相当だな、シャルルは自宅に送り届ける算段を変更して長椅子に足を向けた。


ここの長椅子は寝台としても使用できるように長大に作られている。ひとまず今日の寝床はここだ。疲弊している彼女は一度眠れば早々起きないので研究員が出勤しても問題はないだろう。


シャルルはリーリートを座面に下ろしたが、首にからみついた腕は一向に離れなかった。眠っている、わけではない。「リリィ」名前を呼ぶが、引き締める力が強くなるばかりだった。

どうしたものかと考えながら、シャルルは座面を手で押しながら中腰を保った。拒絶されているとはいえ、たかが女の腕だ。教会の子供相手に腕相撲で負けるほど、か細くてか弱い腕だというのに拘束され続ける。男の中に振り払うことも、落とすことも、解くことも選択肢にない。


首筋に吸い付く頭から「う~」と呻き声が漏れ出た。「リリィ……」もう一度抱き寄せて立ち上がると、長椅子に腰掛ける。自分の硬い体より長椅子の方が居心地がいいだろうに彼女は離れない。シャルルは白い髪に鼻先をうずめ、肩を抱く手をゆっくりと上下させる。


「どうしてほしい」


すると拘束が解かれ、満足げな笑みが目の前に現れた。正気を保った笑みだ。

「わざとか?」ため息をつくシャルルに「引っかかる方が悪い」とリーリートが返す。そうだな、と視線で返すシャルルの鼻を、可愛らしく美しい上に愛嬌もある女が笑いながらつついた。


「それで話は浮かんだ?」

「……本当に聞きたいのか?」


この研究室――植物によって大半を専有されているため温室と呼ぶ者も多い。

その主であるリーリートから突飛な要望を出されることに慣れてはいたが、脊髄での会話はシャルルの苦手とするところだ。話をしろと言われて、「じゃあ」とすぐに浮かぶ性質ではない。


シャルルの後ろで太い尻尾が蠢いた。

本人は表情を変えず考え込んでいたが、尻尾という物言わぬ器官が、感情豊かに右往左往していた。女の腕を二つ重ねても足りない太い尻尾が、中間から二又にわかれ、二つの先端が交互に上下していた。寡黙な男の表情より多くを語るその仕草にリーリートは彼を待っていても時間を消費するだけだと笑いながら悟った。


無言さえ心地いい関係だ。正直リーリートは男の脳を悩ませることができれば何でも良かった。男の口はまわるほうではないし、腹を抱えるほど小気味よい話がすんなり出てくるのは逆に彼らしくない。けれど応えようと思案をしている姿だけでリーリートは精神が落ち着くのを感じた。仕事が生きがいだとはいえ、疲弊はする。疲れ果てもする。けれど目の前の男の手に掛かれば息をふき返すことができた。芽吹きを待っているなら水を与えてあげようかと思える程に。


けれどリーリートは別の手段をとることにした。弟子が研究室に顔を出すまでにまだ時間がある。






初投稿です。どうぞよろしくお願いします。

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