先天的 遺伝子で能力が決まる世界で、後天的 身体拡張技術で僕は強くなった
1章 プロローグ
澄んだ初夏の朝、ヒロシは広々とした部屋で軽いストレッチから一日を始めた。部屋の角に見える野球グローブとバットが彼の日常を端的に表している。高校生の中で、彼は特異な存在。野球への情熱は絶えず、その情熱は彼の生活全般を規定する。
サンドイッチをポケットに忍ばせ、彼は母親に無言でさよならを告げ、自転車に飛び乗った。少し肌寒い風が顔を撫で過ぎていく。遠くに見えるグラウンドへ向かって、彼は一心不乱にペダルを踏み込む。
朝日が肩を照らす中、彼はグラウンドに到着した。早起きの仲間たちが既に集まっており、空気は活気に満ち溢れていた。しかし、その背後には、電極パッドを肌に貼り付け、無骨な外観のFitBackと呼ばれる機械を接続した選手たちが整列していた。振り子のように一定のリズムでバットを振る彼らの姿は、すっかり日常の一部となっていた。
液晶モニターには、突起状の立体的なグラフが浮かんでいた。それは、メジャーリーガー・大谷翔平選手の打撃と投球の筋電図(EMG)データだ。彼らは、その波形と自分の波形を重ね合わせ、同じ動きを追求しようと息をのんで必死に挑戦していた。
「また まねごとか?」と、ヒロシは皮肉っぽく呟いた。大谷翔平を模倣することに疑問を持ちつつも、選手たちは誠実にそして信じ切って練習を続けていた。ヒロシもその一員だが、今の練習方法には批判的だった。ヒロシはオリジナルのプレーを追い求めていた。
「君たちは自分で考えることを忘れてしまったのか?」
ただ独り黙々と基礎練習に取り組むヒロシ。今年も熱い夏季大会へ向かう物語の始まりを告げる。しかし、その答えは揺れ動き、模倣と創造の狭間で反響していた―――。
2章 回想
いまから2年前。FitBackという端末が世界を席巻していた。この装置により、誰もがプロの動作をまねできうるとされていた。その始まりからごく短い期間で、この新技術は社会現象となったのだ。バイオフィードバックの恩恵を受けるという事実はあまりにも革新的だった。
FitBackとは何か。それは筋電図データを記録し、処理する統合システムであり、筋肉の動き、つまり野球選手が投げたり、打ったりする動きを詳細に記録し、それを可視化してユーザーにフィードバックするシステムだ。可視化された目標の動きに、自分の動きを練習によって近づけることで、プロの動きを外見だけでなく、力の伝え方や筋肉の弛緩まで模倣することができる。
FitBackのハードウェアは、筋電図を各人の体からデータを収集する。データ・サンプルは、EMG指標として知られる一連の筋肉活動データを取得し、これによってユーザーが自身の筋肉活動を意識できるようになる。そのデータは電極パッドを通じてサンプリングされ、バンドパスフィルタによって2Hzから100Hzの範囲でフィルタリングされる。これにより長期ドリフトと高周波ノイズが減少し、更に約50Hzの間のバンドストップフィルターが電力線による干渉を排除する。
処理されたデータを40窓サイズでRMS(二乗平均平方根)を計算する。RMS値はEMG信号の振幅の代用となり、筋活動が増加すると増加する。しかし、その信号の安定性を保つため、データの特性を保ったままノイズを抑制するサヴィツキー・ゴレイフィルタが使用されている。
これによりユーザーは、EMG信号の抽象化された表現をもとに複数の部位の筋肉の動かし方をより細かい粒度を理解し、トレーニング効率を向上させることができる。
こうしてFitBackが生まれ、人々は自身の筋活動を視覚化することで自身のトレーニングを理解するようになった。これは新時代のスポーツトレーニングの扉を開くための足がかりとなったのだ。
3章
「また新しい変化球を探してるのか?」ヒロシがキャッチャー目掛けて投げたボールが、グラブの上端をかすめて、遠くのフェンスに命中した。
少しお腹が出た中背の佐藤コーチが歯切れ悪く尋ねた。コーチの目は、遠くのフェンスに飛んでいったボールについていく。明らかにジレンマの中にいた。コーチが抱えていたタブレット型モニターには、ヒロシのピッチングフォームが、立ち方からフォロースルーまで顕著に示されていた。その隣には、各投球ごとの力学的な影響を分析するためのEMG波形が表示されており、筋肉がどれほど活動しているのかを詳細に分析できた。
コーチが投球の筋電図データを評価しながら説明しようとしても、彼の唯一の応答は「自分の身体が何をすべきか、自分でわかる」ということだった。
残りのメンバーたちは、FitBackを使って大谷翔平の投球フォームを模倣していた。あたかもこれが至高のテクニックであるかのように。EMG波形のデータを元に、身体の各部位がどれほど活動すべきかを繰り返し確認し、それに合わせてフォームを修正していた。
「ヒロシ、君の才能を一部でも活かすためには、是非ともこのテクノロジーを使用すべきだ。WBC決勝の最終回2アウト。マイク・トラウトを打ち取った あの気持ちよく曲がるスライダーを見ただろう?」とコーチは口癖のように繰り返す。しかし、その助言をヒロシが聞き入れることは一度もなかった。
毎日、ヒロシは独自のピッチングスタイルに血道を上げて打ち込み、コーチや他の選手たちが理解しきれない新種の球種を次々と生み出していった。特に彼が創り出した「ツイストボール」は、見かけによらずそれまでの何球種よりも複雑な軌道を持つ球種で、バッターを頻繁に困惑させていたのだった。
♰
マウンドに膝をつくヒロシ。球場全体から息を呑む静けさが広がる。自らの球が、バッターボックスに立つ強打者からのピッチャー返しにより、頭部に直撃を受けたようだった。
ヒロシは力を込めて波打つグラウンドを叩く。手に感じる土の感触が、彼の内側の痛みを少しでも和らげてくれる。仲間たちは彼を応援するが、劣勢を覆すための手立てはない。
しかし、ヒロシの心の中には信念があった。「何度だって、自分の球で勝つ。」
試合が再開されると、ヒロシはキャッチャーの合図を確認してからマウンドに戻った。球場全体からせき止められていた息が戻る。監督からは、おそらく無難なストレートを求める指示が出ていた。
だがヒロシはそれを無視した。代わりに、彼のサインは一度も試合で披露されたことのない新球種を示していた。「ツイストボール」、それは彼が練習で何度も何度も試し続けていた球種だ。
ヒロシは深呼吸を一つし、勢いよく投げ込んだ。白い球は、まるで時空を歪めるかのような動きで飛んでいき、ホームベース直前で予測不能の動きを見せ、バッターを完全に裏切った。
「見事な三振だ!」スタンドから歓声があがる。信じられない者、戸惑う者、そして驚いた者の視線の中、ヒロシはただ淡々とベンチに戻っていった。
自分自身を信じ、自分自身のスキルを信じること、それがヒロシがやり遂げたことだ――
試合はまだ終わっていなかったが、ヒロシの心の中にはもはや揺るぎない自信が築かれていた。次の回に向けて、すべての視線が彼に集められていた。そしてヒロシ自身が知っていた――彼が投げるそれぞれの球が、誰も真似できないユニークな力を放っていることを。
4章 エピローグ
甲高い歓声とともに試合は終わりを告げた。ヒロシが投じた投球はバットに当たったものの、一直線に飛んでいったボールはセンターフィールドへ。飛び出すと同時に跡形もなく消えていた。そのままゲームセット。
結局、逆転こそできなかったものの、ヒロシの投じた新種の変化球――それを目の当たりにした選手たちはアウトの音を聞くと同時に呆然と立ち尽くしていた。そんな試合だった。
試合後、メンバーからの祝福を受けながらも、ヒロシはふとあのFitBackを思い出した。最初は模倣に批判的だった自分だったが、それは実は自分の筋肉の動きをより細かく理解できる効果のある道具でもあったことに気づいていた。
「上手な手本にすがることもない。ほんとうに重要なのは、自分と向き合い、自分自身の身体と適切にコミュニケートすることだ」
自分自身が身体をどのように動かすべきか、どの筋肉をどの程度使うべきか。EMGデータは、それを見せてくれたのだ。たしかに、バイオフィードバック自体には自分の身体の感覚をより細かく弁別する能力を高める効果があることが知られていた。
それを知らずに、皆がただ大谷翔平を模倣しようとした。だが、ヒロシは違った。彼が示してくれたパフォーマンスは、ただの「模倣」ではなく、自分自身の能力として吸収できた結果だった。
一人の選手として、バイオフィードバックはあくまで「道具」だ。自分のスタイルを為すためにどのように活用するかが肝要だと、ヒロシは改めて感じていた。
試合は終わり、平和に戻った球場。でも、その中で何かが始まっていた。ヒロシの勝利はただの一勝に過ぎないように見えたかもしれない。でも、それは新たな波――新たなスタイルを持った選手への道を切り開くものだった。
これからはただ模倣する時代ではなく、自分だけのスタイルで勝つ。それがヒロシが示した新たな形だ。
FitBackとは只の道具。それをどう活用し、どのような表現を行うか。これから求められるのはその「創造力」だろう。
- 完 -
あとがき
Facilitating Bodily Insights Using Electromyography-Based Biofeedback during Physical Activity (身体活動中の筋電図に基づくバイオフィードバックを用いた身体的洞察の促進) という論文を読んで、理解したところ、面白いと思った部分を妄想を添えて小説にしました。
この研究は、フィットネスや運動における身体認識とパフォーマンス改善のためにEMGを可視化させるというフィードバックに効果が見られたという研究です。この研究の結果によると、ユーザーが自身の筋活動をリアルタイムで確認できるようにすることで、力を入れて電位を発生させなければならない部位や逆に力を抜かなければいけない部位を知るといった身体認識を深め、運動動作を改善する手助けをしてくれます。実際にアマチュアは、ダンベルを持ち上げる運動フォームの改善に成功しました。また、スポーツのコーチは、筋電図を通じて筋活動を理解することが、筋肉の活性化の状況だけでなく弛緩の状態を把握することや、動きをコピーし、実行をマスターすることができるものであるだとEMGを測定した実験やインタビューで明らかになりました。
自分の身体とどのように向き合い、理解し、そして改善していくかについて、今研究が進んでいる身体拡張技術はスポーツの分野に広がったときの倫理問題・モラルやスポーツの意義が問われるのではないかと思いました。
参考文献
Jakob Karolus, Felix Bachmann, Thomas Kosch, Albrecht Schmidt, and Paweł W. Woźniak. 2021. Facilitating Bodily Insights Using Electromyography-Based Biofeedback during Physical Activity. Association for Computing Machinery, New York, NY, USA. https://doi-org.ezproxy.tulips.tsukuba.ac.jp/10.1145/3447526.3472027