改札
僕には夢がない。…なんていうのは個性にならないかな。ほとんどの人はそうだろう。
じゃあ、こうしたらどうだろう。
「僕は夢がないとはっきり自覚している。」
これでも足りないか。僕の場合、夢だけじゃないんだけど。
ならば、
「僕は僕という人間をはっきり自覚している。」
もっと。
「僕は僕という人間を、嫌というほど、これでもかと、しっかりと、重く、くっきりはっきりと、自覚している。」
誇張はしていないと思う。僕は僕を知っている。
これでやっと、僕以外はいなくなっただろうか。
これでやっと、一人になれる。
一人になったら、僕は何をするんだろう。
「嘘だ。」
「え?」
「え?」
僕の目の前の人物は、ひとしきりマックシェイクをすすった後にそう言った。
その人は女の子だ。そして眼鏡をかけている。赤くて太いフレーム。右の端に指紋の跡が付いていて、左が少しずれている。高校生くらいだろうか。机の上に広げた数学のノートからすると、試験勉強だろう。
と、観察ができるほどに時間が空いた。その子が何か話したことを思い出した時には、その子が何を話したのか忘れてしまった。
何を話していたっけ?いや、なにか話したっけ?
「いや、あなたに言ったんじゃないんで。」
「ああ、そう。」
そうしてその子は、またマックシェイクをすする。机の上を凝視して。
嘘?
問題の答えに難癖をつけているのだろうか。だけど、答えが間違っていることなんてあるのだろうか。
もしかしたら。
考えがひらめいたけれど、そこに僕はもう一度「もしかしたら」を復唱してから考えを進めた。あくまで君とは違う、似ているが違う人物として話を進めるから、安心して勉強していてくれ。
もしかしたら、君は友達のことを考えていたのではないか?友達の言葉とか。
たとえば昼間、お昼の時間。君は友達と机を合わせてお弁当を食べている。女の子らしいカラフルなお弁当箱が並ぶ中で、君だけが少し地味な黒のお弁当箱。
もちろん、君はそんなことは気にしない。友達だってそんなことは気にしない。少なくとも私はそう思っていた。
「ちょっとトイレ行ってくるねー。」
「わかったー。」
「いってらっしゃーい。」
しばしの戦線離脱。もっとみんなと話したいのに。ゴハンの前にトイレ行っとくんだった。駆け足で個室に入り、足早に教室に戻る。
「高橋、ちょっといいか?」
「あ、先輩!」
それは野球部のキャプテンだ。体が大きい。そして、私は野球部のマネージャーだ。何の話だろう、急に後輩の教室に来て。
とかいろいろ考えていたけど、普通に部活の連絡だった。本当にそれだけ。
「お疲れ様です!」
そこで少しため息をついてから、スカートを整えて、教室に戻る。まっすぐに後ろの窓際へ。何の話をしていたっけ。そうだ。昨日のテレビの…
「あ…」
その時、教室が止まった。みんなの目が、私を向いている。
「おかえりー。」
すぐに四方山話に戻った。「えっと、何の話だっけ?」と、私がトイレに行く前の話に戻してくれた。前と変わらず。むしろ行く前よりもうるさくなっているかも。
でも、なんだろう。なんであんまり楽しくないんだろう。
みんな、私が来るまで何を話していたんだろう。なんで私を見て少し黙ったんだろう。
そう考えると、いろんなことが分からなくなってきた。私が教室に入ってすぐの時は、みんな普通に話していた。むしろ私がいた時よりも楽しそうだったかもしれない。
そういえば、マキが私を見つけてからみんなが私を見た気がする。まるで先生が来た時みたいに。私がいた時の話に戻ったのは、私がいたらいけない話をしていたからなの?
「どうしたの?」
「え?」
気づいたら、みんなが私を見ている。不安そうに、注意するように。テレビの前で、オリンピックの選手がミスをしないかどうか、見守るように。
「なんでもないよ?」
なんでもない。なんでもない。ほら、みんなはまた普通に話し出したよ?私も話そう。うん、話せる話せる。だけどどうしてだろう。
なんで私、笑っているのに疲れるんだろう。
「嘘だよ…」
「え!?」
「…」
しまった。今度は大きな声を出してしまった。多分また時間が空く。
少しして、僕は彼女に同志のまなざしを浮かべていることに気が付いた。慌てて「私」をどこかへ飛ばそうとした。しかし、頑張って笑っている「私」の顔がどうしても頭から離れない。彼女の、今は無機質な顔を見れば見るほど、そのかたい殻の中にとうめいな「私」がいる気がしてならなかった。
ほんとうに、君は私なのではないか?
そして僕は同族の年長者として思う。それは誰でも通る道だと。きっかけは些細な出来事だけど、そこからが長いぞ。辛くて大変でほんとうにきついけれど、とにかく死ぬことだけはしてはいけないよ。
「この問題なんですけど。」
「え?」
そういって彼女は僕にノートと答えの本を見せてきた。
「ここ。ここ絶対プラスマイナスミスってますよね?」
彼女が指差す方を見る。そして促されるように答えの方を見る。確かに彼女の答えと答えの本とでは違っている。ノートはマイナス1。答えはプラス1。
だけど、僕はその事実を確認することだけしかできなかった。体中がじわりと熱を帯びてくる。きっと汗のせいだ。
とても長い時間がたった気がして、だけど言葉は何も浮かばなくて、ただただ数式が、頭の中でゆっくりとシャッターを切られているような感覚がした。無機質な写真。
「ごめん僕数学苦手で。」
「ああ、そうですか。すいません。」
「いや、こっちこそ、力になれなくて。」
「いや、いきなりすいませんでした。」
そういってその人はノートを自分の方に戻して、また考え始めた。僕の方は、あと3本残っていたポテトを急いで口の中に入れながら、「そういえば今日はサミットのポイントが5倍だった」とかなんとか頭の中で繰り返しながらそそくさと荷物をまとめだした。この店暑いよな、とか考えながら。電波悪いよな、とか思いながらノートパソコンを閉じた。
電車の中で、僕はもう一度一人になった。煩わしい世間との関わりを捨てて、一人に。
いや、終始一人だったかもしれない。―そうか、一人だったのか。
もう今日はすぐに寝てしまおう。もとから買うものなんて無かっただろうに、僕。あの店から出たかった理由だって、そんなもんじゃなかっただろう。馬鹿みたいだ。ワイファイだってちゃんと飛んでいた。快適な空調。だけど、それを承知で、後からこうなるだろうって分かった上で、ああやって呟いていたんだろう?分かってんだぞ。僕は僕を知ってるんだぞ?
彼女の数式の決定的なミスに気が付いたのは、乗り換えの改札を通り過ぎる直前だった。
END
高校の時に書いた短編です。
自分の本質を表しているようで、読むたびに胸が締め付けられます。
読んで下さり、ありがとうございました。