「秘密の正体」
「なるほど、これがあの建物か」
北東角にたどり着いた珂惟は、壁沿いを南に歩きながら件の建物を見る。壁際に立つ、細長い平屋だ。
壁の向こうでは、「よし、じゃあ運ぶぞ」「せえのっ!」という掛け声がひっきりなしに聞こえる。倒木は建物から少し離れた場所にあるはずだが、荷車のきしむ音が、こちらまで響いできた。
珂惟は足元に転がる石をいくつか拾うと、来た道を少し戻り、再び北東角に立った。そして人の流れが切れるのを待って建物の壁や瓦に小石を素早く投げつける。その速さに驚く間もなくガンッ! と結構な音がして小石が跳ね返り、下に落ちる。誰かが駆けつけるのではとハラハラしたが、荷車の音は絶えず、近寄る人の気配もない。茗凛はほっと安堵の息を吐いた。
珂惟は手にした小石を軽くもてあそびながら、
「瓦も壁もしっかりしてる。老朽化はやっぱり怪しいな」
言いながら建物から目を離さず、壁沿いを往復している。なんとなく見守っていると、角まで行った珂惟が突如身を返して、
「見張ってろよ」
言うなり地面を蹴って両腕で壁を掴んだ。壁の上にひらりと身体が乗った、と思う間もなく、たちまち向こう側に消えた。
「えっ!?」
戸惑うことしばらく。茗凛は慌てて壁に駆け寄り、
「ちょっと、何やってるのよ!」
そう言って、壁を叩いた。突き固められた土は頑丈で、茗凛が力を込めて叩く音はだいぶ吸い込まれた。だが、
「静かに!」
壁伝いに鋭い声。思わず口元を両手で押さえて壁から離れると、通りかかった商人風の男が怪訝な顔をして、目の前をよぎっていく。
――もう、勝手なんだから!
茗凛は思いながら、この場に立ち尽くすことが不自然にならないように、探し物をするふりで袖口を探ったり、髪を結い直したりした。
――でもいい加減、ごまかしきれなくなってきた……そう思っていたらやっと、
「茗凛?」
壁向こうから、空耳? と思うくらいの低いささやき声。
「いるよ。でもちょっと待って、こっちに歩いてくる人がいるから」
「了解。いいときに合図してくれ」
茗凛はこちらに歩いてきた母子を見送った後、両角を素早く確認した。
「いいわよ」
壁に背を預けてささやくと、背後でザッと砂を踏む音が聞こえた――と思った瞬間、風が起きて、傍らに珂惟が降り立った。
彼はゆるゆると首を回しながら立ち上がり、
「やっぱ動いてないとダメだな。身体が重い」
どこが!?
茗凛は背後の壁を見上げる。身の丈を優に超える高さがある。それを、彼は軽々と乗り越えてしまったのだ。こんなことできるなんて――信じられないという眼差しを向ける茗凛の前から、珂惟はすたすたと歩きだした。
――もうホント、勝手なんだから!
茗凛は足を速めて珂惟に追いつき並んだが、彼は何も言わずにいっそう歩を進めた。なんなの!? 思いながら茗凛は、小走りにその後をついていく。
やがて大路に出た。人々が絶え間なく行き来し、賑やかなことこのうえない。そのまままっすぐ左街に入り、一本東の大路を南下する。賑やかな市場を抜け、人気が少ない小路にさしかかったところで、珂惟は足を緩めた。そしてようやく追いついてきた茗凛に、
「聞こえた」
「何が?」
「女の声」
「――――!」
背筋にゾゾゾっとしたものが走る。灼熱の往来で、背筋が一気に冷たくなった。
ということはホントに、法恩寺には幽霊が!
動けない茗凛に気づいているのかいないのか、珂惟は続ける。
「確かに胡語だった。たしかどこぞの市で、ヘンな男に絡まれてた胡人の女が、ああ言いながら逃げてたからな、間違いない。しかも複数だ」
「えっ、生きてるの?」
「当たり前だろうが」
呆れたように吐き捨てると、珂惟は左上を見上げながら腕を組む。虚空を睨むことしばらく、「そういえばさ」と呟き、
「おまえと思按さんに宿に初めて連れてってもらったとき、『最近、敦煌も物騒だから』って言ってたよな。なんか事件でもあったわけ?」
「そうなの。今年に入って、西域の女の人たちが忽然と消える……って、あれ?」
言いかけた茗凛の言葉が止まる。あれ、これって……。
「そういうこと」
「え? それって……どういうこと?」
首を傾げる茗凛に、珂惟は言った。
「あそこには、生きた胡人の女が閉じ込められている――ってことだよ」
驚きの余り口もきけない茗凛。珂惟は続けた。
「長安じゃ西域の女は貴重だからな。あの白い肌と青い目にそそられる貴人が多いらしい。葡萄酒も流行っているし。胡旋舞が踊れる女ならさらに価値が上がるけど、何もできなくても見目さえよければ、重宝な存在であることに替わりはない。無機質な代物なんかとは比べ物にならないくらいの高値がつく。しかもさらって来るなら原価はタダだ」
聖なる仏寺にさらわれた女の人が! しかも代物って……人身売買!?
日常からあまりにもかけ離れた事態に、衝撃で頭がクラクラする思いだ。茗凛はとにかく落ち着こうと息を整え、そして訊いた。
「――どうするつもり?」
「『助けて』って言われたんだ。助けるだろ、普通」
「どうやって? 役所に行く?」
「上座交代の強引な人事を考えると、役人の全部が全部加担してるとは思わないが、あの上座に手をかしてるヤツが必ず役所の中にいる。密告したら握り潰されて終わる可能性が高い。それでなくても寺は治外法権だしな。確かな証拠がなきゃ、取り合ってもらえないだろうよ」
「じゃあどうするの」
茗凛が重ねて訊くと、珂惟はにやりと笑った。
「簡単。――逃がしてしまえばいいんだよ」




