「昨日の出来事」
「ごめんください」
再度の声は、入り口からだ。
「然流は何をやっておるのだ。おぬし、見てまいれ」
「はい」
珂惟の声。と同時に、中から扉が開いた。
「茗凛」
「おまえ、こんなところで何をやっているんだ!」
珂惟が驚きの声を上げたのと、思按が怒りをみせて立ち上がったのは、ほぼ同時だった。しかし茗凛は二人を無視するように入り口に目を向けると、声を張り上げる。
「こちらです、どうぞ」
その声に、「失礼しますよ」と入ってきたのは、腰の曲がった老人。幼子の手を引きながら、いささかのんびり廊下を進んできて、茗凛に示された室内を覗く。そして、
「おお、本当に昨日のお坊さまだ」
老人の目の先には、琅惺がいた。
室内にいた三人の視線が集中する中で、昨日から変わらず見せていた険しい表情を解いた琅惺が、呆然と呟く。
「あなたは、昨日の……」
「昨日の? って、どういうことだよ!」
珂惟が琅惺に詰め寄るが、琅惺は慌てて視線を逸らしただけだ。ならばと珂惟は老人に大股で近づき、飛びかからんばかりに訊いた。
「昨日、何があったか詳しく説明してください!」
珂惟の迫力に気圧された様子の老人だったが、思按が珂惟を宥め諭す間に落ち着きを取り戻し、いささかのんびりと口を開いた。
やたら間延びし、あちこちに飛んでいきがちな話をまとめると、こうだ。
昨日の昼過ぎ、老人が瓜州に嫁いだ娘と一緒に里帰りしていた孫を連れて市場へ行ったのだが、途中ではぐれてしまった。土地勘がまるでない幼子だったため必死で探していると、その姿を見かけた琅惺が、孫探しに協力してくれたのだという。
「で、先にこのお坊さまが孫を見つけてくださって。しかも転んで怪我をしていた孫の手当てまで……。袖は洗ってまいりました。わざわざ破っていただいて申し訳ねえことです。本当にありがとうございました。あのあと、まあ、あんなことがあってバタバタしたまま、満足にお礼もできず申し訳ねえと思ってたんですが、隣に住む焼餅屋の店主が、長安から来た坊さんの知り合いに心当たりがあると言うもんですから、こうやって……」
「あんなことっていうのは?」
だらだら続く話に切り込むように語気鋭くつめよる珂惟に、「いやまあそれは……」と老人は口ごもる。
その時だった。
ドタドタと乱暴な足音が乱れ入ってきた。かと思ったら、
「娘を呼び出すとはどういう了見だ。申し出を受けるにしても、そちらから出向いてくるのが筋と言うものだろう!」
野太い声を響かせてきたのは、彩花の父である。後についていた彩花は、茗凛の姿を認めるとふいと視線を逸らし、父の背中に隠れた。
父は室内の人間にぐるりと睨みをきかせると、小さな子どもは怯えて祖父の影に隠れた。子どもをあやしながら老人が顔をあげ、非難めいた目を父に向けたとき、背後の彩花に気づいた。その視線に驚き、慌てて姿を隠そうとする彩花だったが、老人は近づいてその姿を確かめると、
「――あんたは昨日のお嬢さんじゃないか」
彩花は袖に顔を埋めたまま、無言である。
「ご老人、昨日はこの琅惺だけではなく、こちらのお嬢さんにもお会いになったのですね。どういう状況だったか、ご説明いただけないでしょうか? さきほど、琅惺が迷子になったお孫さんを一緒に探し、その後、怪我をしたお孫さんの手当てをして――そのときに袖を破ったとのことでしたが――彼女にお会いになったのは、そのあとのことでしょうか?」
「ああ、まあ、そうだったかなあ……」
思按の言葉に、老人は彩花の様子を気にしながら曖昧に頷く。思按は静かな声で言う。
「ご老人。ここにいる者は全て事情を存じております。――ですが念のため、ご老人のお言葉で確認を取りたいのです」
「そうかい。まあそうだな。確かに坊さまとお嬢さんは知り合いだと言ってたものなあ。余計な気回しでしたな」
それならばと老人は安堵したように頷き、説明したことは、要約すると以下の通りである。
琅惺と二手に分かれた老人が、とある小路に入ったら、彩花が男数人に囲まれ、地面に突き飛ばされた場面に遭遇した。声をあげたら男たちは逃げたものの、彩花が激しく泣いているのでほおってはおけず、しかし孫も気になるため弱り果てていたところ、孫の手を引いた琅惺がその場に現れた。すると琅惺は彩花を見て大層驚き、「知り合いだから連れて行きたい」と老人に申し出た。その際この宿の道筋を尋ねられ、ちょうど帰り道だったので、そこの角までご一緒した。道中お坊さんはお嬢さんの様子を大層気にされていたから、簡単に事情をお話した。角を曲がったら、お知り合いの姿を見つけてたようだったので、そこでお別れした――。
「俺は見ました、琅惺がそこの角を曲がってくるのを!」
老人の声に被せるように珂惟が言い、茗凛も「私も!」と声を張り上げる。琅惺以外の視線が彩花一身に集まったとき、思按が一人視線を移し、
「ご老人、本日は大変ありがとうございました。琅惺は仏弟子として当然のことをしたまでと存じますが、わざわざのご来訪、心より感謝いたします。――然流、お送りを」
「はい」
然流に伴われて、老人は去った。




