「長安帰還命令」
茗凛が宿に着くと、然流が入り口前の長椅子に、困惑顔で座っている。無関係な人間が入って来ないように見張っていろと言われたという。茗凛が中の様子を聞くと、「昨日と一緒ですよ」言いながら然流はため息をついた。
琅惺は、彼を囲む上座、思按、珂惟たちのどんな言葉にも一切答えず、無言を貫いていると言う。
「なんで何にも言わないんだろう。このままじゃ大変なことになるっていうのに」
「大変なこと?」
茗凛の問いかけに、然流は声を潜め、
「実はさっき、彩花さんの父親が来たんです。で、『娘を傷物にした責任を取って、還俗して娘と結婚しろ』って」
「――は?」
「娘がそれを望んでいるからって。聞き入れなければ、昨日言ったとおりに役所に突き出して、長安に戻るどころか、一生人前で生活できないようにしてやるって」
「…………」
ふつふつと沸くのは、怒りだった。
「ちょ、ちょっと茗凛さん困りますって!」
中に入ろうとした茗凛を、然流は慌てて静止しようとする。だが、
「お願い、今すぐ彩花をここに連れて来て!」
茗凛の切迫した声に、然流はあっけにとられ、伸ばしかけた手を宙にさまよわる。しばし苦悶していたが、一瞬も自分から逸れていかない真剣な眼差しから逃げ出すように、「えいっ!」と言うなり、駆け出していった。
人気のない建物を進んでいくと、奥から人の声が聞こえてくる。
声は、昨日茗凛と彩花が入った空き部屋からだった。ほんのすこし開いた扉から中を見ると、四人が車座になって座っている。バタバタとあの扇を鳴らしていた上座が、大儀そうに潰れた声を出した。
「――このままでは、お主は還俗するしかなくなるぞ。還俗して大店の婿養子に入るか、牢に繋がれるか――いずれにしても長安には帰れまい。そこで、だ」
パシン! という音。扇子を閉じた音だ。
「すぐに長安に帰るのだ。さすれば今回のことは、ワシがうまいこと話をまとめてやろう。未来ある若者に、こんなことで傷が付いては大変だ。気の迷いというものは誰にでもあることだからな。なあに何の心配もいらん。だから、な?」
気味が悪いほど優しげな声だ。思わず背筋がゾワッとする。だが、
「冗談じゃない! 今、逃げたら、罪を認めるも同然だ。琅惺は何もしてないって言うのに、どうして長安に帰らないといけないんですか!」
「不測の事態なのだ、仕方ないだろう。長安の上座にはワシが一筆書いてやるから安心しろ。きちんとやっていたと書いておいてやるから大手を振って帰るといい」
「ですから、そういうことじゃ……」
「上座、やはり話がおかしいように感じます。自分に害を与えた者と結婚したいなど、正気の沙汰とは思えません。あの娘は琅惺に気があるふうで、朝の参拝時に琅惺の後を追う姿が、度々見られていました。それに見たところ――上の衣は埃まみれで、肩口が破れていましたが、その下の白衣は僅かな破れもなければ、汚れもなく……。あれは自分で袖を引きちぎったようにしか思えません」
「俺もそう思います。裙子も多少埃がついていましたが、あんなのは転んだ程度のものです」
「とはいうが、傷ついた娘に『嘘だろう』などとは言えぬだろう。それに――本当に嘘かどうかも分からぬ。人は、罪深い生き物だからな」
「だから! こいつはやってないって言ってるだろ!」
思わずとばかりに珂惟は声を張り上げ、立ち上がっていた。
「では何故、何も言わないのだ。やっていないなら、いくらでも弁明すればよいのに」
「だからそれは……」
そこへ。
「ごめんください」




