「魔がさす」
珂惟が茗凛を連れて沙州賓館に姿を見せたとき、おかみと霞祥は「あんたって娘は、病人の方になにを――」と怒りかけたが、茗凛の目が赤いことに気づいたとたん二人は揃って口をつぐんだ。
「おかみ、ちょっと……」
いつにない真剣な面持ちの珂惟に、おかみは「なんだい」とやはり真剣な顔で近づく。それと同時、霞祥は茗凛を優しく抱きかかえるようにして、一座の居住になっている離れに連れて行った。
そして夜の舞台後、茗凛のもとに座長とおかみ、霞祥が現れた。
「大丈夫かい?」
体調を気づかわれた後、おかみから珂惟が話したという今日の出来事について再確認される。茗凛はそれにいちいち頷いていたが、「分かったよ」とおかみが優しく話を終わらせようとしたときには慌てて、声を張り上げた。
「でも琅惺さんに限って、そんなこと絶対にありえないから!」
その言葉に、女二人は頷いた。ずいぶん難しい顔をして。
しかし座長は、
「でもなあ、出家しているとはいえ、年頃の男子なわけだし。そもそも『絶対ありえない』などということは、世の中にはないものだから」
と言うではないか!
そのうえおかみまで、その言葉に頷きながら、
「そうだねえ。人間誰しも『魔がさす』ということはあるものだからねえ」
と同意を示すものだから、茗凛は「だからないって!」と声を大きくしたものの、それには霞祥さえ「そうねえ」と言葉を濁すだけで、同意してくれなかった。
三人は、肩を怒らせる茗凛の顔を気の毒そうに見て、揃ってため息をついただけだ。
――なんだか私、無性に一人ぼっちだ。
私より長く生きて、色々経験を積んでいる三人だから、きっと「そういうこと」を何度も見てきたんだろう。私だって「まさか!」ってことは何度かあったし。
だけど今回ばかりは絶対に違う!
そうじゃなきゃ……そう思ったとき、何故か珂惟の顔が浮かんだ。さっき別れたばかりなのに、「また明日」って言われたのに、今すごく会いたい。
何か進展があるかもしれないと、茗凛は霞祥とともに大急ぎで朝の参拝に向かったけれど、そこには珂惟も思按もいなかった。聞けば二人は宿にずっといるそうだ。そしてさきほど寺に戻った上座が、これから宿に向かうという。
「とりあえず、舞台が終わったら様子を見に行きましょう。その頃には落ち着いているだろうから」
霞祥の声に、茗凛は頷くしかなかった。
その日の舞台は無事に終えた。
心はここになかったけれど、淡々とこなした。何も考えなくても体は動いていた。だけど終わった後に達成感はなく、あそこはもっとこうしたらよかったという悔しさもない。向けられた拍手がなんだか遠くに感じた。
茗凛は足早に天幕へ下がると、おかみからの視線を外しながら汗を拭くのももどかしく、着替える。そして霞祥の演技中であることもかまわず、「出かけてくる」そう捨てて、おかみの返事も待たずに再び外に出た。
昨日以上に足早に、茗凛は城内を北上する。途中小路を右に曲がり、市場にさしかかった。昼もだいぶ過ぎ客足が落ち着いている時間帯のはずなのだが、それでも地元の人や旅人たちで相変わらず賑やかだ。そこへ。
「ちょっと待った」
横から声をかけてきたのは、またしても焼餅屋の店主だった。昨日同様無視を決め込もうとした茗凛の前に、「ちょっと待ってくれ!」店主がさっと立ちはだかった。邪魔しないで! と茗凛が店主を睨み上げると、
「そう怖い顔しなさんな。訊きたいことがあるんだよ。――お姉ちゃん、あの、いつも一緒に来てる兄ちゃんはここの人じゃねえよな。ひょっとして長安から……」
「珂惟のこと? そうよ、長安のお寺から来たのよ」
悠長に話してる場合じゃない、とばかりに茗凛は店主の言葉を遮る。すると、
「やっぱり! 道理で言葉が都風だと思ったんだよ。都から来たお役人にも贔屓にしてくれる人がいるから、すぐ分かったよ。でもあの兄ちゃんはお坊さんじゃあねえよなあ」
「ええ、お坊さまのお供について来たのよ」
「やっぱり俺の思ったとおりだ! いやあ、よかったよかったー」
店主はのんびりと言い、人のよさそうな笑顔を見せる。
しかし茗凛には笑い返すどころか、意味不明な言葉を訊き返そうという余裕さえなかった。とにかく一刻も早く、宿に行きたい。
「ごめんなさい、今ちょっと急いでるの」
そう言い捨て、再び茗凛は歩き出そうとした。だが、
「ちょっと待った。そのお坊さまに会いたいって人がいるんだよ!」
「え?」
後ろから引っ張られるように足を止めた茗凛は、大慌てで振り返った。




