「よくある蔑み」
そこへ、
「失礼する」
思按の声。
茗凛は慌てて立ち上がる。部屋の前に現れた思按は、室内にいる茗凛に軽く目を瞠るがすぐに目を逸らし、次に珂惟と琅惺を、そして最後に彩花の父に目を留めた。
「――おまえは確か、そいつの兄だったな。ワシは責任者を連れてこいと言ったはずだ!」
思按の後ろからそそくさと付いてきた然流を、父親は睨めつける。「いやあの……」おどおどと口ごもる然流の言葉を遮り、
「あいにく、比丘が私しかおりませんでした。上座の帰りは明朝になりますゆえ、本日は私がお伺いいたします。――それで、どういうことでしょうか?」
「どうもこうも……そこの坊主が、うちの娘を!」
唾を飛ばしながら、琅惺と自身の娘である彩花を指差した。思按はその示すほうをいちいち見てから、
「なるほど、おっしゃりたいことは分かりました」
そう頷いて見せたものの、
「それは――事実なのでしょうか?」
静かな問いかけ。それに彩花の父は激昂し、
「貴様まで庇い立てするか。娘がそう言ってるのだ。事実に決まっている!」
「なるほど」思按はそう言って、肩で息をする父の横をすり抜け珂惟と琅惺の前に立つ。目で珂惟にどくように促すと、障害なく自分の前に立つ琅惺を見下ろし、
「そうなのか?」
やはり静かに問う。
琅惺は思按をじっと見つめたまま、何も言わなかった。
「見ろ、言えないのが何よりの証拠だろう!」
父が張り上げる声を無視し、思按は重ねて、
「声が出ぬわけではあるまい。諾否、その程度が何故言えぬ?」
琅惺は、それでも答えない。思按は軽くため息をついて彩花の父に目を向けると、
「彼が語らぬ今、一方の話だけを聞くわけにも参りません。いずれにしても上座のお戻りを待たねばなりませんし、今日はどうぞこれでお引き取りを。――然流、ここの奥の物置は、外から鍵をかけられる造りだったな。今宵はそこに琅惺を入れるから、少し片付けてきなさい。私も今日はここに残ろう」
「そんな話が聞けるか、そいつが逃げたらどうする!」
「はい」と答えた然流の声を掻き消す大音声だ。しかし思按はうっすらと笑い、
「その時は、彼が負うべき罰を私が負いましょう。――今はどうぞ、お引き取りを。これ以上の騒ぎは、お嬢さんのためにもならぬと存じますが」
「……」
毅然と言い放った思按に、彩花の父は言葉に詰まる。いまいましそうに思按を睨みつけると、突如身を返して大股で部屋に入り、間もなくして妻子を引きずるようにして出てきた。
彩花に集まる視線。だが彼女は、両親に挟まれた中でうつむいたままだ。
その父は廊下に立つ全ての人間に一瞥を残すと、妻子を抱え込むようにして、宿を後にした。
三人を建物の外まで見送った思按だったが、ほどなく戻ってきた。思按が琅惺の前に立つと、琅惺はうつむく。
「――おまえと一緒に講義に言った沙弥が『おまえを見失った』と言って寺に戻ってきた時間と、おまえがここに現れたと然流が言う時間とを照らし合わせると、半刻(三十分)ほど空白時間があることになる。その間、おまえはどこで、何をしていたのだ」
「琅惺、どうなんだよ」
思按の台詞に、珂惟がかぶせるようにして琅惺に迫る。しかし彼は、相変わらず微動だにしない。思按はため息をつき、珂惟はもどかしげに歯噛みしている。そこへ、
「片付きました」
小走りで然流が戻ってくる。思按は軽く頷くと、「では」と傍らの琅惺を振り返った。琅惺は白い顔で小さく頷き、思按に促された然流の後に続く。
「おまえは、もう帰りなさい」
そこで思按は茗凛に向き直り、幾分優しげな声で噛んで含めるように言った。
「では送って参ります」
思按の声に応えたのは、茗凛ではなく珂惟だ。
思按は少し眉間に皺を寄せ、しばし思案風だったが、やがてそれを解き、
「――頼む」
それだけを言い、然流らの後を追うように廊下を奥へと進んでいった。
珂惟と茗凛は思按の後姿を並んで見送っていたが、「行こうか」珂惟が声をかけたのを契機に、揃って外に出た。
薄暗かった屋内を一歩出ると、外は嘘のように明るく、熱気に満ち満ちていた。
眩しすぎる日差しが目に染みる。茗凛は思わず目を閉じ、手を額にかざした。
「大丈夫か?」
やけに真剣な声。目を開けると晴れやかな青空に反して珂惟の表情が曇っている。
「目が暗いのに慣れちゃってたから、ちょっと眩しかった……」
「そうじゃなくて」
茗凛の弁明は途中で遮られた。そこでようやく気づいた。珂惟が何を心配しているかに。
茗凛は「ああ、あれ」と苦笑して見せると、明るい声で、
「大丈夫に決まってるじゃん。あんなのよくあることだって。もう慣れてるし」
笑いながら、そう言った。つもりだった。なのに……。
ふいに、耳元に指が伸びてきた。びっくりしていると、そのままゆっくりと引き寄せられる。珂惟が、どこかやるせない目をしたまま正面を向いていた。導かれるまま彼の肩に頭をもたせかけると、じんわりと温かさが伝わってくる。
茗凛は目を閉じ、静かに涙を流し続けた。




