「怒りの矛先」
「嘘!」
思わず大声をあげて振り返った茗凛に、彩花の父親が鋭い目を向けてきた。思わず身を引いたが、相手はずいっと茗凛に詰め寄ってきて、
「誰だそれは、おまえの知り合いか?」
「いえ、あのそれは……」
まるで敵のように睨みつけるてくる鋭い目に、心が奥から冷めていく。と、父は部屋の入り口付近で所在無さげにしている然流に目を留めると、どかどかと歩み寄り、
「琅惺とはおまえか?」
掴みかからんばかりの勢いだ。壁に追い詰められた然流は必死に首を振り、しどろもどろに、「わ、私は法恩寺の行者で……」
彩花の父は、然流の言葉をどうでもいいとばかりに遮り、
「琅惺とは何者だ?」
「琅惺さん? 琅惺さんは長安から来た留学僧……」
「ヤツはどこにいる?」
「こ、この奥の珂惟さんの部屋にいるんじゃ……」
聞くなり、彩花の父は踵を返した。荒々しい足音をあげて向かうのは珂惟たちのいる部屋だ。「ちょっと、お待ちください!」茗凛が慌てて後を追ったそのとき、
「何の騒ぎだ」
いきなり扉が開いて、珂惟が出てきた。すると父が一歩踏み出して珂惟に迫り、
「孺子、おまえが長安から来た坊主か?」
「……。確かに長安から来てるが俺は坊主じゃない。見れば分かるだろ」
いきなり孺子呼ばわりされたことに明らかにムッとしているが、相手と状況を判断したのか、グッと感情を押さえるように、どうにかそれだけを口にする。
「では琅惺とかいう輩はどこだ」
「――私ですが」
珂惟の後ろから琅惺が姿を現したとたん、父は珂惟を突き飛ばすように押しのけ、琅惺に掴みかかった。あっけにとられている然流の横で、「やめて!」茗凛が悲鳴を上げる。珂惟が茗凛の声に弾かれたように後ろから、琅惺の襟を握り締めている父親の手首を掴み、引き剥がした。両者の空いた隙間に割って入ると、その背後で琅惺が激しく咳き込む。
「いきなり何なんだ。こんな事態だからって、いくらなんでも非常識だろう!」
「こんな事態を引き起こしたのは、そいつだろうが!」
怒鳴る珂惟の声を掻き消すように、父親が声を張り上げる。
「――は?」珂惟の声。
「娘が、そいつにやられたと言っている」
その場の視線が一斉に琅惺に向く。
彼は喉元を押さえたまま、咳を止めた。
逡巡しているかのようにしばらくは身動ぎ一つしなかったが、やがて顔を上げ、自分に向く視線一つ一つに目を巡らした。そうして、自分の襟を強く掴む。
一つ大きく息を吐き出すと、口元を固く結び、瞑目する。
「ありえねえよ」
重苦しい空気を切るように吐き出したのは珂惟だ。にわかに振り向き、
「おまえもはっきり言えよ! 断じてありえないって!」
琅惺は目を開ける。目を大きく見開いて珂惟を見据えた。しかしそれも束の間、拒否を示すようにきっぱりと横を向いた。
またしても琅惺に伸ばした手を珂惟に制されながら、父親は声を張り上げる。
「その、どうしようもなく乱れた格好といい――やはりそうなんだな! おまえ、早く寺に戻って上座を連れて来い!」
振り返った先にいたのは然流。彼はしどろもどろに、
「か、上座はお出かけされてまして、寺主も今日は……」
「では誰でも良い、上の人間を連れて来い!」
「わ、分かりましたっ!」
然流は踵を返し、あたふたと入り口に向かっていく。バタバタと乱れた足音が遠ざかり、やがて消える。誰も動かない。ただ長い沈黙が落ちた。その間も父親は殺意すら感じさせる目を琅惺に向け続けている。遮るように立つ珂惟の後ろで、琅惺は静かに瞑目していた。
長い静寂を破ったのは、彩花の父親だった。
「――寺の者が来るまで、こいつを縛り上げておく」
その言葉に、琅惺がわずかに身じろぎする。しかし珂惟がそれを押しとどめ、
「させねえよ。――だいたい、おかしいだろ。琅惺が彩花さんをここに連れて来たんだ。本当に琅惺が何かしたっていうなら、ここに連れてくるはずがない!」
「罪人を庇うのか。おおかた、坊主のなりで娘を騙したのだろう。すぐさまその衣を脱げ、この悪党が! 貴様、ただで済むと思うなよ。まずは寺で罰を受けさせた後に追放させ、その後は俗世間の罰を受けてもらう。長安の土は二度と踏めないと覚悟するんだな!」
珂惟が再び後ろを振り返った。だが琅惺は再び目を閉じ、珂惟の目を受け止めようとはしない。珂惟は歯噛みする。そんな二人を見て、父親はさもおかしそうに、
「ほら見ろ、何も言わぬでないか! 何も言えないのだ、事実だからな!」
茗凛はたまらず駆け出した。そして膝を折り、彩花に縋りつくと、
「嘘でしょう? 琅惺さんが、だなんて、嘘でしょう?」
「嘘じゃない!」
鋭い声。目に涙を浮かべたまま、彩花は茗凛をまっすぐに見据える。
「そんなはずない、彩花、本当のことを言って!」
「何なのよあなたは! 付き合いの長い娘より、あんな得体の知れない男を庇うつもりなの! 男にばかり媚を売りまくって、これだから踊り子は!」
それまでおとなしかった母親が突如金切り声を上げ、狂乱したように髪を振り乱し、茗凛を思いっきり突き飛ばした。「あんたみたいなのと付き合ったばかりに彩花は……」倒れた背中に、冷えた声が浴びせかけられる。
着き飛ばされたときに打った胸が痛い。だけどそれ以上に、背後にいる彩花の母親と、騒ぎを聞きつけてこちらにやってきた父親が自分を突き刺しているだろう視線がもっと痛い。茗凛は歯を食いしばる。
泣くもんか、こんなことで絶対に、泣いたりなんかするもんか!




