「いつか居なくなる人」
「おはようございます」
箒の手を止めた珂惟が、こちらを向き、にこやかに声を上げた。
「おはようございます珂惟さん」
「おはよう」
「……。おはよう、ございます……」
三人三様の挨拶を受けると、珂惟は一礼し、あっさりと背を向けた。そして再び箒を動かし始める。そっと隣の彩花を見ると、声と同じく表情が暗い。最近ずっとこんな顔だ。どうしたんだろう、恋に悩んでるにしても、いつもとはちょっと様子が違う気がする。
「彩花、ひょっとして具合が悪かったりする?」
何だか心配になって、茗凛はそう聞いた。だが、
「別に」
彩花はそっけなく言うと、足早に境内へと入っていく。
――あれ? もしかして私に怒ってる?
そう思うと、にわかに心が沸き立つ。そう言えば、昨日から満足に話をしてない。
まさか、珂惟が言ってたように私が琅惺さんと話してたから(しかも楽しげに)? でもだって、そんなんじゃないし! というか、彩花は強引過ぎるから琅惺さんは引いちゃってるだけなのに。そんなの、誰が見たって分かることなのに! ――もっとフツーにしなよって言ってあげようかな。でもそれじゃ、うまくいかせようとしてるみたいじゃない。そんなの、どだい無理な話だっていうのに。どうせ琅惺さんもいつかはいなくなる人だし、長安にいい人もいるならなおさらだよね……。
そう思うと、わいていた怒りが静まっていく。いつか居なくなるんだ――あの二人は。
いつもどおりに三人で参拝を終え、茗凛は本堂の階段を下りながら、「兄さんを探さなくっちゃ」と自分に言い聞かせていた。
すると、
「あら、おはようございます思按さま」
先を歩く霞祥の声に目を上げると、そこに目当ての思按が居た。「おはようございます」
思按は硬い表情で霞祥に会釈をすると、茗凛に目を向け、
「ちょっと来なさい」
目と声が怖い。これは確実に叱る気だ――逃げたいけど、今は好都合だ、と思いたい。
「姐さんたち、先に帰ってて」と言い残し、茗凛はおとなしく思按の後に続いた。
連れて行かれたのは、昨日琅惺と話をした胡楊樹の下である。
「昨日も話したことだが」
「――はい」
とりあえずしおらしく聞くことにする。思按は大きく息を吸い込むと、
「いいか、今回彼が敦煌に来たのは、対立のあった道教側に『彼を罰した』と見せかけてほとぼりを冷まさせるためであって、つまりは彼の将来を守るための一時的な処遇だということだ。手段は感心しないが、彼が高僧二人の命を救ったのは事実。おまけに優秀だとも聞く。彼は将来有望な青年であり、いつかは長安に戻る身だ。分かっているだろうが」
そこで思按は、茗凛の反応を促すように言葉を切った。
しかし茗凛は、声を出すことができない。耳で何度も兄の声が渦巻く。――分かっているだろうが。分かってるよ。分かってるってそんなこと、最初から。
思按は茗凛が何も言わないのを見て取ると、軽く咳払いをして続ける。
「彼にはしっかりこの地で勉学を積んでもらい、次の試験こそ優秀な成績で合格してもらわなければならないのだ。それでいてこそ、この寺で彼を預かった意味があるというもの。だから、おまえの無分別な行動で、彼の未来に傷をつけるようなことがあってはならない。敦煌観光だなどと遊びに連れ回す行為は、以後控えるように」
一気に言うと、今度は茗凛の返事を待たず思按は踵を返した。
だが。
「――勝手なこと言わないでよっ!」
気づいたら、茗凛はそう声を張り上げていた。
兄、とは言え、一緒に暮らしたことはない。兄が居ると知ったときには、思按はすでに出家者だった。突然の妹の出現に戸惑いはあったはずだが、元々情の篤い人だったのだろう思按は、できる限りで茗凛を気づかってくれた。そのくせ「出家した身だから家族などいない」となどとやたらに口にするのは、照れ隠しだと理解している。というのも茗凛に朝の参拝を薦めてきたのは、誰あろう思按だからだ。毎日言葉を交わすわけではないが、「ここに兄がいる」と思うと、それだけで心強さを感じる。逆に、彼が「近くに用があったから」と沙州賓館を訪ねることもままあった。そんな兄の気遣いに、茗凛は本当に感謝しているのだ。
そのうえ思按は茗凛よりずっと賢い。言うことはいつも正論で、いちいちもっともだ。だから兄に対して反論など、滅多にすることはなかった。まして声を大にしてなど――。




