「許されない言葉」
「…………」
珂惟の言葉を反芻する。
今、親父が上座って言った?
言ったよね、確かに言った!
「うそっ、そんなことありえない!」
無理もない。というのも「上座」とは、寺を管轄する最高責任者であり、何百万といる比丘の中でもとりわけ優れた一握りの者が、周囲に認められ、また国の承認を受け就くことのできる、仏門の最高位なのである。
その高僧が、仏教四大禁忌の一つである「姦淫」を犯しただけでなく、子まで成すなんて――。
「またまた、冗談ばっかり」
言いながら笑った茗凛の表情が固まる。
目を伏せ薄い笑を浮かべる珂惟が余りにも――傷ついた顔をしていたからだ。
ちょっと待って私、今なんて言った?
ありえないって。珂惟が居ることがありえないって言ったってことになるの?
「本当――なの?」
おずおずと茗凛は尋ねる。
すると珂惟は一転、よく見せる悪戯っぽい笑みを見せて、
「どうだと思う?」
訊いてきた。その態度に、「なんだ、やっぱり冗談なんじゃん!」と怒りがこみ上げたが、すぐに静まる。
いくらなんでもこんなこと、冗談で言う必要があるだろうか?
「そんなことより、ここから歩いて一刻(十五分)くらい東か南にあって、『攝大乗論』を講義してる寺、調べられるか? 今が講義の中日といったあたりだ」
珂惟は今までのことはまるでなかったかのように、いつものような何気なさで言った。
敦煌は仏教隆盛地だから寺院は数多くあったが、ここから一刻という範囲なら限られる。仕事柄情報の早い座長にきけば、すぐだろう。茗凛は頷き、
「うん、たぶん大丈夫。でもどうして?」
「琅惺のヤツ、俺に『話がある』って訴えてた。法恩寺では周囲の目がありすぎてとてもヤツには近づけないが、外でなら……。よーし、忙しくなるぞ。やっぱり今日のうちに焼餅を食べとかないとな。よし行くぞ、茗凛」
そう勝手に結論付けると、まだもやもやしている茗凛を急かすように、珂惟は大きく伸びをしながら元気に歩き出した。
そうして翌日。
茗凛と珂惟は、座長があたりをつけた寺に、舞台終了後大急ぎで向かった。さいわい講義はまだ終わっていないようだった。
揃って寺門に隠れるようにして中を窺う。珂惟の目は、真剣そのものだ。
茗凛は小さく欠伸を漏らす。すると珂惟は笑いながら、
「日が高いのにもう眠いなんて、バアさんみたいだな。だから今日の舞台、失敗したのか」
誰のせいだと思ってるのよ! という声は喉で押し返した。
昨日、色々なことを考えていたら、あんまり眠れなかったのだ。おかげで今日は朝から色々やらかしておかみにどやされ続けたあげく、舞台では旋回中に頭上の皿を落として割るという失態をおかした。観客からは温かい拍手と「頑張れ!」という優しい声をもらったが、そんなのは感謝以上に屈辱だ。
「ゆうべちゃんと練習したのかい?」と責めるおかみに「今日帰ったら倍やるから!」と拝み倒してこうやって出てきたのだ。
だけどさすがに毎日は……まずいんだろうな。
ちらりと隣を見る。珂惟はふだんとなんら変わりのない様子だ。
やっぱりあれは冗談だったんだろうか? ならいいけど、そうでないなら私、彼にすごくひどいことを言ってしまった。だったら謝らなきゃ。
でもこうやってフツーに接してくれてるところをみると、やっぱり冗談?
だけど、珂惟は言っていた。『父とは――気楽には呼べませんが、近くにおります』って。聞いたときはやんごとなき方の妾腹なのかと思ったけど、上座なら……頷ける。同じ寺に住んでるんだから、近くにいるわけだし。
ああでも、なんて訊いたらいいんだろう。
悶々としていると、にわかに境内が騒がしくなった。講義が終わったのだろう、大勢の人が門から出てきたのだ。珂惟は人混みに目を凝らす。茗凛も慌ててそれに倣った。やがて、
「あ、いた」
珂惟が声をあげる。
やはりその人混みの中に琅惺はいた。昨日の沙弥も一緒だった。
何かを探すように周囲を見ていた琅惺の目が、確かにこちらを捕らえた。だがそれは一瞬、たちまち人に押し流され、遠ざかっていった。言葉を交わすことはできなかったが、沙弥には気づかれなかったのは幸いだったといえよう。
「よし」珂惟は自信ありげに頷いた。
「こうなったらヤツと話ができるまで通い続けてやる。いいな茗凛!」
と来たもんだ。だから茗凛は、
「ええ、もちろんよ」
そう、大きく頷いてみせた。どうやっておかみを説得しようと悩みながら。




