「敦煌観光」
「一体どういうつもりだいっ!」
天幕に戻るなり、女だけなのをいいことに気前よく脱ぎだした茗凛に、おかみの怒りはいっそう燃え上がる。だけど茗凛の心はここにあらずだ。
珂惟の言うことは正しい。無理してる、って自分だって思ってることだし、言われ慣れてることだから、普段なら何にも感じないはず――でもなんでだろう、彼の口から聞いてしまうと、なんかちょっと悲しい気がする。
思いながらも手だけはしっかり動かして、外の舞台を気にしていつもより小声で文句を言い続けるおかみと、はらはらした様子でこちらを見ている彩花の前で、茗凛は手早く着替えを終えた。
「だから、どこに行くんだい!」
初めておかみの声が耳に届いたように茗凛はハッとする。目を吊り上がり具合で、おかみの怒りが相当であることは一瞬で分かった。だけどそ知らぬふりで茗凛はにっこりと笑うと、
「この一座の恩人がいらっしゃってるのよ。無下にはできないじゃない」
そう言い残し、天幕を飛び出した。
「よし、じゃあまずは敦煌の象徴『白馬塔』から行こう!」
「ああ、あの内門すぐにデンと建ってたアレか。あれって何なの?」
「あれはね、かの高僧・羅什さまが敦煌にお立ち寄りになったとき、経典を載せてきた白馬があそこで亡くなったといわれている伝説の場所なのよ」
「えっ、羅什三蔵の! それは行かないと、おい、急ぐぞ!」
言うなり身をひるがえした珂惟に茗凛はひどく驚き、だけどすぐ、彼が煌々と照る太陽をまともに浴びながら走っていることに気づいて、
「ちょっと待って日陰を歩きなさいよ! そんなに走ったら倒れちゃうって。砂漠をなめるなー!」
そう声を張り上げたけれど、聞こえているのかいないのか、珂惟はどんどん先へと進んでいく。「もう!」茗凛は握りしめた両手を振り上げかけ――、だけど仕方ないとばかり日陰を選び、小走りに彼の後を追った。
羅什とは西域の亀茲国の王族で、四~五世紀に訳経に多大な功績があった鳩摩羅什のこと。晩年は長安へと招かれ、その類まれなる語学力を駆使して、様々な経典を伝え、訳した。その文は流暢で美麗、ために現在日本で読まれる経典の大多数はいまだにこの羅什訳のものと言われる。その偉業に、最高僧の称号「三蔵(法師)」を与えられていた。
住宅街を抜けて内門をくぐって内城に入ると、雲ひとつない青空にそびえる、方形の台座に円状の階が重ねられた白亜の塔がひときわ目を引いた。少し西に傾いた日が作る影に入り、目を細めて仏塔の相輪を見上げていた珂惟は、やがて静かに瞑目し、合掌する。その厳かな雰囲気は、これまで知った彼の姿とは余りにもかけ離れていて、茗凛は困惑しつつその姿を見つめてしまった。
やがて手を解いた彼は、傍らの茗凛を見ると、照れくさそうに頭をかきながら、
「まさかこんなところで羅什三蔵の遺産を見られるなんて、つい興奮しちったよ」
「そーなんだ。やっぱり有名な方なんだね」
「そりゃあそうさ。数多の苦難を乗り越え、サンスクリット語(古代インド語)の経典を多数翻訳して下さった方なんだぞ。その経に俺たちを含めて、どれだけの人間が恩恵を受けたことか……」
などと熱く語り出した。
そっか、やっぱり珂惟も仏教徒なのね。そうは見えないけど。しかも行者だけど、と茗凛が思ったとき、珂惟は再び塔を振り仰ぎ、
「琅惺は見たかなあ。見てるよなあ、きっと」
ぽつり呟く。茗凛はその言葉を不思議に思って、訊いた。
「なにそれ、それじゃまるで琅惺さんに会ってないみたいじゃない」
「会ってないんだよ、それが」
珂惟は言う。自分が法恩寺の境内に入ると然流が必ず付き従い、しかも寺の中央にある講堂までしか入ることを許されず、そこから奥へは立ち入っていないという。
多数の経典が収められた蔵経楼も、上座の居室である方丈も、琅惺たち沙弥や思按たち比丘の居室である僧坊も、全て出入禁止区域にある。
私みたいななんちゃって在家信者だって、もう少し先までは入れるのに――なんで? そう、不思議に思わずにはいられない。
そして琅惺はといえば、やはり寺の沙弥が常に従っていて、挨拶を交わすことさえ遮られる状態なのだとか。
「よっぽど俺らがつるむと悪いことをやらかす、って思われてるんだな」
珂惟は目を伏せて、小さく笑った。




