彼女と彼の事情 壱「智」
涼平は中学生の頃、智という幼なじみがいた…
彼女との想い出が遂に語られる。
涼平が恋愛に距離を置く理由が紐解かれる、過去編前編。
当たり前になっていた日常とは、簡単に崩れ落ちる事をまだ知らない頃。
俺は中学三年の夏を迎えていた。
その頃も相も変わらず、戸松と日高と高校受験だというのに馬鹿みたいに遊んでいた。
戸松は少し髪は今より長くて、音楽も同じピアノ教室に通っていたが辞めていた。
日高は高校と同じくバスケ部で、最後の大会が幕を閉じて少し寂しそうだった。
今と違うのは、俺らは三人ではなくて四人だったことだろう。
子供の頃から俺らは四人で遊んでいた。
残り一人の今井智は身体が弱かったが、俺と同じピアノ教室に通っていて全国の音楽学校から声がかかるほど有名だった。
智との関係は曖昧で、友達でありライバルでもあったがお互いの悩みを打ち明けられる関係だった。
自分の中でも、彼女への気持ちは認識出来ていなかった。
あまりに友人としての関係が長過ぎたのだろう。
気付けば、彼女も大人びて来ていて、その綺麗な顔つきに目を奪われる事もあった。
自分の中の恋愛感情を見て見ぬフリをし続けていた。
しかし、それでも関係を進めなかったのは、自分の中でこの関係を崩したく無いと思っている部分も少なからず会ったからだろう。
「涼平は何でいつも怒っているんだ?」
智は譜面を鞄に入れながら、こちらの様子を伺う事も無くそう言う。
「怒ってなどいない」
ピアノ教室の帰り、俺らはいつも通り片付けて、いつも通り俺は不機嫌だった。
毎回同じ時間帯になると、俺は彼女のピアノの様子を見に行き、その実力差は見せつけられる。
今日は自分が以前コンクールで弾いていた、ショパンのワルツを聴かされた。
同じ曲なのに、ここまで相手に与える印象が違うのだと思い知らされる。
「何であの曲を、あんな弾き方出来るんだ?」
「私の滲み出るオーラのせいかしら」
「言ってろ」
戯けてみせる智に、苛立すら覚える。
恋人になって、彼女が自分と同じ練習量など知ったときは絶望もした。
「多分だけど、涼平は無機質なんだと思う」
「無機質?」
「技術や正確さは涼平のが凄いと思う。だけど、そこに深い感情を込められていないの」
「俺のピアノは、機械的だって言いたいのか?」
「何か、譜面通りって感じがするんだよね」
少し声を荒げているのが、自分でも分かるくらい声のボリュームが大きくなっていた。
彼女の言う事が理解出来なかった。
当時の俺は、譜面通りに正確に弾く事が正しいと、それがコンクールで優勝できる方法だと信じていたのだから。
「それ、私も思った」
後ろから急に戸松が出現する。
「ああ、もう五月蝿いな…それに、お前はピアノ教室辞めたのに、何でいつもいるんだ」
そもそも戸松はピアノ教室を辞めて、もう一年以上が経っていた
「それは二人に会いたいからだよ」
「香澄は嬉しい事言ってくれるね」
智が戸松に勢い良く抱きつく。
それを蹌踉めきながら、戸松が抱きとめる。
「それに二人は、もう練習終わったんでしょ?」
「それがどうしたんだよ?」
恐る恐る聞く俺に、戸松はいつもの言葉を口にする。
「今から進も呼んで、四人で遊ぼうよ」
このパターンは定番だった。
俺ら二人の練習が終わると、戸松が遊びに誘いにくる。
そんな事を小学生の頃から続けていると、彼女の突拍子もない発言にも馴れてくる。
しかし、当時の俺はそれに付き合う余裕もなかった。
「夏休みでも、俺らはコンクールの為に練習しないといけないんだよ」
「えー遊ぼうよー」
「秋の予選まで時間ないんだ」
「リョウのいけず!」
口を尖らせて、俺の態度に戸松は拗ねてみせる。
「五月蝿い」
「たまには良いんじゃない?」
戸松を邪険に扱う俺の裾を引っ張って、智がそう言った。
「智」
本当に時間がなくて、余裕もないのも事実だった。
だが、智はそんな俺を見透かす様に瞳で、「ね、いいでしょ?」と合図してくる。
「仕方ないな」
「やったー!」
わざとらしく大きな溜め息をする俺を見ずに、戸松は大きなガッツポーズをする。
「智は戸松たちに甘すぎる」
「リョウは、智の言う事は聞くんだね」
痛いところをついてくる。
俺は本当に智には適わないと思わされる事が多かった。
まるで、こちらの思っている事を見透かされている、そんな気分に度々させられていた。
「お前以外の言う事は、な」
「愛の力だね」
「な、何言っているんだ、お前は!」
茶化してくる戸松に食って掛かる。
多分、戸松は俺の気持ちに少なからず気付いていたのだろう。
こういう時間の流れは息抜きとして、本当にちょうど良かった。
俺と智の二人は、そのまま戸松に引きつられる様に日高との待ち合わせ場所まで行く。
ここまでがセット。
待ち合わせ場所は駅前のコンビニが多かった。
道中は本当に他愛も無い話ばかりしていた。
「戸松は何でピアノ辞めたんだよ」
「今からはロックだと思ってさ」
「香澄、ギターやるの?」
「ギターボーカル目指そうと思って」
戸松は勢い良くギターを弾く恰好をしてみる。
意外と様になっていた。
「そう言えば、作曲とかやっていたもんね」
ピアノ教室でも戸松は異質で、クラシックもやっていたが自分の曲を弾いている事が最後は多かった。
今思うと、この頃から戸松は曲を作ったりすることに興味があったのだろう。
歩いていた智の速度が遅くなったと思うと、横に振られるようにフラフラと壁に手を当てる。
そのまま少し静止する。
「智、大丈夫か?」
「うん、少し立ちくらみだと思う。練習のし過ぎかな?」
明らかに具合が悪そうにする彼女に、戸松と歩み寄る。
遂には立っているのが座り込んでしまう。
顔色も少し青く、小さく肩で息をしている。
「今日はもう帰るか?」
「ううん、辛くなったら帰るよ」
智は幼稚園の頃から身体は弱かった。
一度だけ入院はしたものの、その後は普通に生活していた。
ただ、他のクラスメイトに比べると目立つほど体力は無かった。
体育や運動系の行事は、毎年欠席していた。
そんな彼女もピアノが絡むと、その設定を無視する。
ピアノの練習をしていると何時間でも弾き続け、コンクールの最中に体調が悪くなった事もなかった。
本人曰く、「気合いの問題よ」だそうだ。