切り傷
お前なんて、だいっきらいだ!
腕に今もうっすらと残る古い傷痕を見ると、あの生意気な声が思い浮かぶ。
誰が悪かったか、と、訊かれれば、間違いなく俺でもアイツでも無かったと今でも答える。ただ、子供の善意は独善で、そして、俺とアイツの間には少なくない溝があった。それだけの話だ。
後悔?
無いわけがないじゃないか。だって、俺は……。
「腕、鬱血してますよ。変な痕になっちゃってます」
そう言われて、腕まくりしていた右腕を見る。肘の少し先。細いロープを長時間巻きつけたような薄い線の様な赤い痕が腕に這っている。
しまったな、少し油断していたか、と、袖をおろそうとした時には、彼女に気付かれていた。
「あ……れ?」
戸惑い、そして、困惑の表情。
今日は、夏が過ぎた秋の日で、普通にしている分には半袖でも少し肌寒さを感じさせるような火だった。でも、秋祭りを準備する地元のバイトやボランティアで境内がごった返している。額に浮かんだ汗に負けて、腕を捲くったのはいつだったか……。
人差し指を自分の口に当てる。
「内緒、だよ」
行きつけのスーパーでレジを担当していて、それでお互いに顔を覚えていた。そして、今日の地域の集まりで友人になった女の子――まあ、子とは言っても、年はそう違わないようにも見えるんだけどね――は、どうしたらいいのか分からないような顔で俺を見続けている。
でも、そういう視線に銅答えていいのか分からずに、俺の方も困る事しか出来ない。
苦笑い的な愛想笑い浮べると、女の子はハッとした顔で――。
「あの!」
と、声を上げ、でも、周囲の視線が集まると同時に顔を俯かせてもう一度、蚊の鳴くような声で『あの』と、呟いた。
「事故みたいなもの。まあ、気付かれたことも事故といえば事故か。気にしないで。もう随分と昔の事だから」
近所への評判――仕事の都合でこの辺りにいるので、古くからの近所付き合いは俺には無い。尤も、最近ではそうした煩わしい代物は廃れてきてはいるようだけど――も考え、今後の事という打算も手伝って、俺はなんでもないことのような顔でそう告げる。
もう随分と昔の事。
それも正しい。
でも、それが色褪せたかと訊かれれば、首を縦に振ることはできない。
後悔が、いつまでも胸の奥にある。
もっと違った対応があの子に出来たんじゃないかって。
「はい」
そう答えた女の子だったけど、俺の横に並び、祭りの提燈飾りをつけるのを手伝う振りをしながら訊いて来た。
「ここに来る前に、なにかあったんですか?」
見詰め返すと、拗ねたように視線を逸らされた。
少し野暮ったい眼鏡の、今時珍しい黒髪でセミロングの女の子。
なんとなく、アイツに似ている気がして、つい口が緩んでしまった。
「強いて言うなら、なにも出来ない事があった」
「話してって言ったら怒ります? その正式に知り合って間もない相手からだと」
「いや……。まあ、今日なら良いかな?」
はい? と、女の子は小首を傾げて見せたけど、俺はそれを無視してそのまま話し始めた。周囲の視線もあるので、作業の手を止めないままに。
そう、あれは、中学二年の話で、俺もアイツも、二年のクラス替えで始めて同じクラスになって……。
会ってそんなに経たずに喧嘩した。一度きりの喧嘩を。
理由は……なんだったかな? 確か、中二の俺は、誰もやりたがらないクラスの委員長に立候補するような、推薦で楽して高校に入るための打算というか、あまりものの変な委員会に入るよりはリーダーになっていたほうがやりやすいと考えるようなタイプで――アイツは、どちらかといえばドン臭くて虐められていた。
多分、最初は、杓子定規の良い子としての行動が切っ掛けだったと思う。なにかの作業で庇ったとか、きっと、そんな感じ。
でも、それをアイツは――。
「お前なんて、だいっきらいだ!」
アイツが握っている、美術で使う彫刻等の一番ナイフに似ている刃に、うっすらと血がついている。俺の血だ。切られた、とはすぐに分かったけど、痛みはすぐに俺の頭まで届かなかった。
多分驚きの方が大きかったと思う。
だけど、そんな俺を他所に、周囲の生徒が俺を守るように俺とあいつの間に立ちはだかり――いつもアイツを虐めている連中が正義の味方の面をしているのが気に食わない――、先生や他の生徒によってアイツは取り押さえられている。
「お前なんて、だいっきらいだ!」
アイツは、もう一度俺に向かってそう叫んだ。
それが、俺がアイツの声を訊いた最後だった。
気付いた時には、教育ナントカとか、教師だとか、PTなんチャラとか言うへんな組織が間に入って、アイツを勝手に転校させていた。
切られてから、三日も経っていなかったと思う。
今にして思えば、大きな事件じゃないから、蓋をしてしまおうって言う馬鹿な大人対応だったんだと思う。ああいう組織は、たいていそんな風に、深い原因を掘り下げず、保身だけに走るように出来ているんだから。
まあ、でも、アイツに前科がつかなかったのはよかったのかもしれないけどね。
いや……。
そうだな……。
確かに、俺がアイツに声を掛けたのは、使命感のようなものがあったからかもしれないけど、どこか不器用でほっとけなくて、そんなアイツが好きだったからなのかもしれない、な。
だから、今も浅い切り傷が痕になって残っているし、ふとした瞬間にアイツの声が耳に浮かんでしまう。……のかもね。
いつの間にか、祭りの準備の作業は終了していた。
雑談に興じて、終わりの挨拶を聞き逃したのかもしれない。いや、周囲が気を利かせたとかかな。大卒でこの辺に就職した俺と、短大卒でそのまま親元にいる彼女なんだから、年が近いこともあって周囲としてはそういうものだと思われてしまったんだろう。
……彼女には、迷惑かな?
いや、そもそも、今の俺に次の恋への準備が出来ていないか。
「私は」
長い事俺の話に付き合っていた彼女が、口を開いた。
うん? と、視線を向け、話を訊く体勢に入る俺。
「なにか行動を行えただけでも、貴方を尊敬します。きっと、その女の人も、そうだと思います」
真剣な顔で話す彼女に、やんわりと微笑みかける。
「ありがとう」
でも、心の中は冷静なままだった。彼女は、あの女の子じゃない。本当はどうだったか、なんて当人にしか分からない。ありきたりな慰めで薄れるような後悔なら、きっと持ち続けてはいなかった。
まあ、こんな込み入った話、重すぎるか、と、会話を打ち切ろうとしたその時、女の子の方から話を継がれてしまった。
「でも――」
視線を向ける。
かざりっけのない眼鏡を通した、真剣な視線に射抜かれた。
「だからこそ、傷跡以上の物を持ち続けているのは、ずるいと思います」
気圧されて、返事ができなかった。
でも、俺が戸惑う重病を彼女は待ち続け――。
「そうかもな」
なんて、玉虫色の言葉を俺に継がせた。
「お祭り」
「うん?」
「誘って下さい」
願いするって態度でもなく、どこか膨れっ面でそんなことを言った彼女。
ふ、と、少しだけ自嘲してから、俺はそれに応じた。
左腕の古い切り傷、その後悔という痛みはまだ薄れてはいない。
ただ、それでも……。