第8話 魔
それが起こったのは突然のことであった。
しかし、その前兆は間違いなくあったのだろう。
それはそういうものなのだから。
だからそれは、俺が、気づいていなかっただけなのだ。
その日は、俺がアリアから世界中の仕事の話を聞いて、訓練を始めてから一ヶ月と三日目のことであった。
俺は、いつものように精霊体の訓練を行っていた。
精霊体は、訓練の成果か、日に日により大きな体積や密度でも構成、操作できるようになり、今日は遂に、いつもの靄の塊のようなものから、顔に表情のようなものが見える程度にまで成長していた。当然、手足には指が五本あり、それぞれに動かすこともできる。
俺は、体がはっきりと定まっておらず、ややモヤモヤしている以外はほとんど人間と変わらないそれを殆ど自由に動かせる様になっていた。
マナの還元の為のマナを大地に薄く広げる作業を並行しながら、俺は精霊体の表情を動かす練習と、体を動かす練習を行う。
やり方は、最近発見した両方いっぺんに訓練できる方法、演劇だ。
俺は、精霊体にそれを演じさせる。
今日の演目は「ハムレット」だ。俺も好きな名作なだけに演技にも熱が入る。
現在では、まだ複数の精霊体を動かすことはまだできない為、一人で全ての役をこなしており、まるで落語みたいな一人相撲なのであるが、それだけに量、質ともに良い訓練になるのだ。
そして熱演することしばらく、自分の生死を自分に問いかける、俺自身も好きな、かの有名なシーンまで演じたところで、突如として、それまでスムーズに動かせていたはずの精霊体の動きに変化が生じる。
おかしい。何故だか、急に右手の制御が効かなくなった。
俺が、今までになかった突発的な事態に混乱していると、しばらくして右手の制御が戻る。動かせるようになった。
何だ。勘違いか? それとも、ついつい意識を逸らしてしまう初級のミスを繰り返したのか?
これは、まだまだ修行不足だな。
俺は一旦、ほっとして、再び中断した演技を続けようとする。
と、今度は何故か左手が動かない。
焦って、左手に意識を集中し、動くように念じる。動く。と、次は左足が動かない。意識を集中する。動かない。もう一度動かそうとする。今度は右足も動かなくなる。そして、再び右手、そのまま両手。次第にコントロールが効かない範囲が増えていく。
おかしい。何かがおかしい。
俺は、同時並列で行っていた、マナの還元の作業を中止し、全意識を精霊体に向けると、動かなくなった部分に動くように強く念じる。
しかし、どんなに念じても動かなくなった両手両足は全く動かない。
何かが、何かが起こっている。
それは、違和感。
精霊体に何かおかしな事。
何だ。
思い出せ。
この一ヶ月の訓練前の精霊体。今の精霊体。
その違い。
俺は、必死に記憶を辿り考える。
そうか! 色。
色が違う。
精霊体の密度の違いは当然あるだろう。しかし、それ以上に、今の精霊体は、どこか薄汚れた、濁った、澱んだ色合いである。
前の精霊体は違った。
もやもやの体は、白い靄のようなマナでできており、それが透けるような精霊体の美しさを演出していた。
なぜ気付かなかったのだろう。こんな大きな違いを。
そして、何より、いつからなのだろう、こんな色になってしまったのは。
わからない。
このように色が澱んできたのは、急に起こったことではないのだ。
恐らく、少しずつ。
気づかない程度に少しずつ。
ゆっくりと汚れていくように濁っていったのだ。
毎日の変化。
今日と昨日を比べるだけじゃあ、わからない、一ヶ月前の精霊体と比べて始めて気づく、ゆっくりとした変化。
しかし、俺がその事実に気がついた時には、それは既に手遅れだったのだ。
必死の抵抗も虚しく、最後まで唯一、操作の聞いていたはずの顔の操作までもが、遂に効かなくなったかと思うと、同時にその濁った精霊体が全て制御不可能になりゆっくりと溶け出していく。
それはやがて精霊体としての形を失い、ただの黒い靄の塊となった。そして、ゆっくりと地面に溶け込んでいく。
嫌な予感がする。
俺は、この黒い靄、恐らく黒く濁ったマナが地面に染み込むのを止めようと、必死に念じる。
しかし、形が崩れた後でもやっぱり操作は効かない。
俺はどうすることもできず、ただ黒いマナが地面に染み込んでいくのを見ていることしかできない。
黒いマナが半分くらい染み込んだところで、俺はもう一つの違和感にも気づく。
何故こんなことにも気づかなかったのだろう。
空だ。
空が青くないのだ。
この世界に来て以来、一度も濁らなかった青。それが今は上空に浮かぶ大量の黒い靄で世界樹の周りが覆われているせいで、その青を何一つ見ることができない。
そして、相変わらず、その黒い靄、澱んだマナは操作が効かない。
しかし、どこでこんなに多くのマナが生まれたというのだ。
澱んだマナは確かに異常だが、それ以上に、このマナの量のほうが異常だ。
マナは世界樹である俺が還元しないと、存在しないのではなかったか。
そこで俺はふと気づく。
そうだ。
ある。
これだけの大量のマナが、存在している可能性。
そうだ。
このマナは、俺が還元し、生み出した物。
制御に失敗して行方不明になっていたマナたちなのではないだろうか。
それらのマナが黒く、そして澱んだ形で帰ってきたのだ。
しかし、何があって、こんな風になってしまったのだろう。
しかし、俺がそう考えを巡らせているうちにも事態は刻一刻と進んでいく。
上空の黒いマナはいよいよとどまる事を知らず、空からゆっくりと垂れるように落ち、そのままたどり着いた地面にも溶け込んでいく。
そして、もともと精霊体であった黒いマナと合流すると、膨大な量の黒い靄となって、世界樹の外縁部の地面を黒く染めていった。
辛うじて、世界樹の付近は、さっきまでマナの還元に使おうと、地面に染みこませていた正常のマナで埋まっているため、その急激な侵攻から守られているのだが、しかし、量の違いか、それも次第に、少しづつ黒く染まっていく。
恐らく、大地と普通のマナの、さらに隙間に浸透していっているのだろう。
このままでは、俺の本体の世界樹にまでこの黒い靄が達してしまう。
俺は、本体から搾り出すようにマナを追加していくが、それでも地面を染める黒いマナは留まることを知らず、マナの染みた大地を少しずつ、削り取るように蹂躙していく。
どうすればいい。
何か方法は。
あれの侵攻を防ぐ方法。
そこで俺は気づく。
地面で俺を守っているマナはあまりに広がりすぎているのだと。そのために、密度が足りず、黒いマナの侵食する余地があるのだ。
俺は、広がったマナを集め、固めようとする。しかし、それはあまりにも少なすぎた。それは、そうだ。もともと、マナの還元の元に使う用のマナだったんだから。
俺は、広がったマナを集めるのを一時中断し、ひとまず、広がったマナの領域内の大地をマナに還元することに集中することにした。
今までの訓練の成果かもしれない。それとも火事場のバカ力か。
ともあれ、いつもよりもずっと早く、大地のマナへの還元を行った俺は間髪入れずに、そのマナをより自分の付近に集めていく。
マナの還元から生まれた大量のマナ。
それらを世界樹の根の周りで高密度に凝縮し、黒いマナの侵食できない障壁を作ったのだ。
そのマナの還元によって、元マナの染みていた範囲では、大地の概念がマナ化され、その上、そのマナが中心に集められたことによって、大地の概念の密度が薄くなる。
そして、マナが集められた根の付近以外の部分の大地は、瞬く間に黒に染まっていく。
既に周囲が黒いマナに覆われていて、大地の概念が周囲から補填されないため、空間的に埋めることができず、より隙間が大きくなったためだろう。
しかし、そんな黒いマナの猛攻でも高密度のマナの障壁は破られることはなく、俺は一先ずの難を逃れることに成功した。
俺は、そっと一息つく。これはまだ、解決ではない。あくまで問題を先送りにしただけだ。
しかし、アリアが帰ってくるまでこの状態を保つことができれば、どうにかなるのではないだろうか。
どういう理由で、このようなことが起こったのかも分かるのではないだろうか。
俺はあの黒いマナ、「魔」とでも呼ぶべき不可思議な物質に思いを馳せる。
しかし、それは油断である。
異変はまだ終わっていないのだ。
俺は、油断するべきではなかった。例え大地に染み込んだ黒いマナを阻止できても、まだ、黒いマナは残っている。俺は本来その可能性に気づくべきだった。
そうすれば、仮に既にそれを阻止するだけの力が残っていなかったとしても、もう少し、もう少しだけ抗うことはできたはずだ。
しかし、俺は油断した。気を抜いてしまった。
それは、この場においては致命的であった。
地面に染み込みきらず、空に残っていた黒いマナ。これが上空から、一気に世界樹の芽に向かって降り注いできたのだ。
俺は咄嗟に、体内のマナで二つの葉と茎を覆う。
しかし、大部分は大地に染み込んだとはいえ、まだ十分に大量に空中に残っている黒いマナは、圧倒的な質量でそれを押しつぶしていく。
こちらも大地の中程多くのマナがある訳でもなく、それらを防ぐには密度が圧倒的に足りてない。
少しずつ、正常なマナの薄い場所から黒いマナが侵食してくる。
黒いマナの侵食に負け、二つの葉のうち、小さい方の葉が黒く染まる。と同時にその葉は急速に萎れ、そしてついには茶色く枯れてしまった。
この枯れ方はおかしい。俺は黒いマナの脅威を改めて認識する。
世界樹の葉は通常、枯れることはない。それは生命の象徴だからだ。しかし、黒いマナの前にそれは枯れ落ちる。
だが、双葉のうちの一つを食らっても、まだ黒いマナの侵食は止まらない。むしろ侵食は増していく。
俺は残りのマナを振り絞る。しかし、止まらない。
それは俺の抵抗の為か多少はゆっくりと、しかし確実に茎の方にむかって侵食してくる。
そして、遂に生命線である真ん中の太い茎付近にまでにその黒い魔手が迫る。
俺は悟った。
そうか、
俺は、
死ぬのか。
やれることはやった。もう体内のマナは殆ど残っていない。
黒いマナはすでに太い茎から上に向かって二股に分かれた茎の内、片方をほぼ侵食してしまった。
じきに、太い茎も、そして根もこれらによって侵食されるだろう。
そうじゃなくても、今少しでも俺の集中力が失われれば、地中のマナの障壁も解けてしまう。
そうすれば、そのマナ密度は緩み、地中にある大量の黒いマナが一気に侵食してくるだろう。
もう、万策は尽きたのだ。
あと数分で俺は、再び死を迎える。
いや、あの黒いマナの禍々しい気配。
そして、マナという物質の強大さを考えると、下手をすればあれは俺の魂すらも飲み込むのではないだろうか。
そうすれば、もう生まれ変わることすらできないだろう。
走馬灯が頭をよぎる。
木。大きな木。大樹。広がる幹。緑の広い葉。
風。揺らめく木々。ざわめく葉音。飛び立つ鳥。
水。地に張りめぐる根。吸い上げる幹。吹き出す葉。
世界樹。
ああ、本当に短い命だった。
折角、世界樹になったのになぁ。
せめて大きな木になってから死にたかった。
それに、アリア。
彼女は今、一体どうしているだろうか。
折角造った世界樹が枯れてしまって、困るだろうか。
それともそのことすらもアリアの計算の内なのだろうか。
ああ、死にたくないな……
生きたい。
生きたいよ。
でも、
俺は、
ここで、
命を、
「吸って!!!!!!!!!!」
声。
声が聞こえる。
懐かしい声だ。
一ヶ月ぶりの声。
でも、もう……
「早く、それを吸えって言ってるんだよ! このバカ!!!!!」
それ?
それとはなんだ?
何を吸えばいい?
わからない。
しかし、その声は聞こえ続ける。
「吸って!!」
ああ、うるさいな。
最期くらい静かに逝かせてくれよ。
「吸って!」
ああうるさい。何を吸えと言うんだ。
ああ、もう面倒だ。
お望み通り、
全 部 吸 っ て し ま お う !
周囲の、周囲のマナを吸う。
マナを吸う、マナを吸う、マナを吸う、マナを吸う、マナを吸う、黒いマナを吸う、マナを、マナを、マナを、黒いマナを、マナを、マナを、黒いマナを、マナを、黒いマナを、黒いマナを、黒いマナを、黒いマナを、黒いマナを、黒いマナを、黒いマナを、黒いマナを、黒い、黒い、黒、黒、黒黒黒黒黒………………
「吐いて!!!!!!!!」
吐き出す。僅かに残った白いのも。掃いて捨てるくらいある黒いのも。
全て吐き出す。
「吸って!!!!!!」
吸う。
「吐いて!!!!」
吐く
「吸って!!」
吸う
「吐いて!」
吐く。
吸う。
吐く。
吸う。
吐く。
………………
…………
……
気がつけば俺は、自然と意識することなく、大量のマナを吸い、そして吐き出すことを繰り返していた。
それらのマナは黒も白も混ざり合い。
いや、黒が白へと混ざっていき、次第に同一と化していく。
吸う。
吐く。
マナはやがて一つの流れとなる。
吸われることで加速し、
吐かれることでさらに加速する。
それは循環。
マナが循環する環。
そして、どれだけの時が経っただろうか。
どれだけ吸ったのかも、どれだけ吐いたのかもわからないくらいその果てに。
黒いマナは消え、循環するマナの全てが白いマナに変わっていた。
それでも俺は吸い続ける、吐き続ける。
吸い。吐き。吸い。吐き。吸い。吐き。吸い。吐き。
そして吸い……
「もういいんだよ。もう終わったから」
そこで、俺は、吐くのを止めた。
そして、前を見る。彼女だ。
「ぁ…ぃ……ぁ…」
言葉が出ない。体内に溢れんばかりのマナが内部から世界樹を圧迫する。
だが、彼女との間に必要なのは言葉ではない。心話だ。
だから俺は話せるはずだ。
「……ひ、久しぶり、です、ね、アリア。随分、遅かった、のですね」
俺は辛うじて、声を絞り出す。
切れ切れに。でも強がって。普段の調子で。
それに対し、彼女は口を開いて……
「久しぶり。カエデ。間に合って良かったんだよ」
一ヶ月ぶりに見たアリアは、いつもの様にひょうひょうとしながらも、どこかほっとしたかの様に、そっと微笑んでいた。