本物の殺気
框矢が、幾度と無く陸上自衛隊の駐屯地を訪れて五年余り。
彼の来訪は見慣れたものとなっていた。
「永野さん、まだまだ踏み込みが甘いですね。思い切りが必要な時もあるんですよ」
「多野さん。今度は聴覚に頼り過ぎです。視覚とのバランスを整えるようにして下さい」
「三国さんは、瞬発力が弱いかと。筋トレして下さい」
オブラートに包まず、直球な物言いは、言い方がキツいと言われもした。だが、何が言いたいのかがはっきりしていて、克服法を模索し易いと評価は良い方だ。
そうして顔馴染みとなる頃には、僅かな自由時間に框矢に話し掛ける隊員も居る程。
その一人が、普通科三等陸曹、蓮田丈紀。
「框矢殿」
「蓮田さん」
殿、と付けられ苦笑する。呼捨てに、と言ったにも関わらず、皆敬称を付ける。さん、や君より良いと押し切られて今に至るのだが。
そもそも三十路を越えた框矢に、君付けは合わない。
「未だに、我々に対して本気を出されていないそうですね。一度くらい、本気を見せて頂けませんか」
「……」
框矢は微かに笑うだけ。
「框矢「本気を出して対峙しようものなら、あなた方全員、即、倒れてしまいます。自衛隊が機能しなくなっては困ります」
蓮田はそれ以上、何も言えなかった。だが、やはり気になるものは気になるのだ。
なので、しつこく、呆れられる程粘り強く頼み込んだ。
「框矢殿」
数歩隣に蓮田を認めると、呆れた様な乾いた笑みを浮かべる。
「粘りますね」
「はい、本気を見せて頂きたいので」
ニッと笑う蓮田に、はぁ、と盛大に吐息する。そしてとうとう、根負けしてしまった。
「……分かりました。では明日、全員に耳栓を所持して来るように伝えて下さい。忘れた者に対して、精神の保持の保障は一切しないと付け加えて下さい」
「耳栓、ですか?」
「ええ。本気での相対、まだあなた方の段階では早過ぎますから、代わりに殺気をお見せします。明日はそれだけで訓練は終わるでしょう」
殺気……?
何故殺気なのか。それが、実戦に役に立つのか?と内心首を捻りながら、蓮田は明日の訓練に参加、同席する全ての幹部と隊員に伝えて回った。
「全員、耳栓は所持して来ましたか」
框矢の物静かな声音に、その場に居た全員が敬礼と共にはい、と答える。
「本気での相対は、あなた方には早過ぎます。瞬きの間に半数以上が倒れてしまう。しかし本気が見たいとの希望がありましたので、戦闘能力では無く、殺気をお見せします。
……では耳栓を装着して下さい。奥までしっかり付けたら、更に両手で耳を塞いで下さい。幹部の方は、隊員全てが装着したのを確認したら、自身の耳栓をお願いします。幹部の方が装着したのを確認したら、お見せしますので」
その言葉に、各々が耳栓の装着をし始める。隊員全員、そして幹部が付け終えて両手で耳を塞いだのを見た框矢は瞑目し、深く、深く深呼吸を始めた。
刹那。
場の空気が一変した。一つ、彼が深呼吸をする度、気温が下がっていく。
その場に居る隊員達、幹部達はそう感じた。そして、とんでもない事を希望してしまったのでは、と。
スウッと開眼した框矢の眼は、恐怖を通り越した、人ならざる冷たく鋭いもの。
そう……それは、長野の山中で彼がダナニスに向けたそれと同様の目つきだった。
「……ッ」
皆、一様に思った。彼は、人間では無いのかもしれないと。
そして不意に、框矢が呼吸を止めて隊員達を見た……次の瞬間。
無音の喚声が自衛隊員全員を襲った。同時に、彼を中心に発生した暴風も。
そして彼らも見てしまったのだ。講師である框矢が居る筈の場所に、紅い眼の架空の生物が佇み……自分達を見据えて居るのを。
暴風も喚声も収まった時。それらを浴びた隊員全員に、最早立って居られるだけの余力がある筈も無く、皆が皆、その場に崩れ落ちる様にへたり込む。そして茫然自失状態で、動く事すら出来なかった。
その喚声を、直接耳に入れなかった事が正気を保たせたのだ。
気付けば目の前に、いつもの物静かな框矢が立っている。
“耳栓を外して下さい”
その手振りに幹部は漸く、手を動かした。
「……框矢殿、あなたは……」
一体何者なのですか、という言葉は続かなかった。
「文句なら、三等陸曹の蓮田さんに。彼が希望したのですから」
その感情無き声音は、框矢自身、やりたく無い事をしたのだと知るには十分で。
その後、蓮田三等陸曹は一週間の食事抜きと清掃の罰を受けたという。




