二ヶ月後
「どうだ?彼の様子は」
その言葉に、白衣の男が首を振った。
「相変わらずです。違う、だとか僕は……とか。ずっと呟いてます」
「そうか」
壁に嵌め込みの窓ガラスに目をやり、その向こうの部屋を眺めた二人。
そこはベッドや机が置かれた、個人病室。唯一出入り可能なドアは外から施錠され、そのベッドに座り呟いていたのは。
ダナニス・青馬衣だった。
「違う……そんな事……僕は……」
某所、国立精神病院。
逮捕後、彼は人が変わったようになってしまっていた。
取調べ中も留置場で拘禁中も、意味不明な事を呟き、取調べの質問にも応じない。
精神錯乱状態が続き、彼は有罪確定とはされながら精神病院へ収容されたのだった。
医師にダナニスの状態を聞いたのは、担当警察官。相変わらずの返答に、ただ嘆息し元来た廊下を戻って行った。
ダナニスは何度返り討ちに遭おうと框矢を追い続けて来たが、その度に框矢に部下を無惨に斬殺され、それを目前で見て来た一人。
良く今まで神経を保っていられた、とある意味賞賛出来るかもしれない。
彼の身の内で、対峙する度に少しずつ、僅かずつ何かが欠けていき……あの日、とうとう崩れたのだ。
それは彼の正常な思考能力。
“框矢さえ手の内にすれば全てが叶う”と言う自身の精神的支えを失った事で、精神バランスの均衡が崩れて自我の喪失に繋がった。
廃人同様の彼には、最早以前の好青年、慈善起業家の面影は微塵も無い。
その眼に正気を灯す事も。
これでは本人からの供述が取れない。だが、警察に齎されたものがあった。
影人の作った盗聴録音機の音声とカメラ映像。榊原と共にその二つを統合させた音声付き映像が入ったフロッピーディスク。
それも、副総監という実質No.2の上司から渡された。その証拠の出処は不明確ではあった……のだが。
幾度も信憑性の確認をしたものの、改竄目的の映像編集の痕跡も見当たらず、映像を見る限りダナニス本人だと確定した。
正気に戻れば尋問、戻らなければ生涯精神病院での生活。
……その後、ダナニス・青馬衣が表舞台に姿を現すことは無かったという。
***************
「全員、整列!」
ビシッと整列したのは、陸上自衛隊駐屯地、所属する全自衛隊員。
陸上自衛隊長官の来訪を知らされ、召集が掛かったからだ。
だが、移動車両から降りて来たのは長官だけでは無い。その後ろに、框矢が駐屯地に足を下ろした。
「さて」
威厳ある声音は長官のもの。
隊員は皆、長官の斜め後ろに佇む框矢が気になるが、直立不動姿勢で彼の次の言葉を待った。
「皆も既に知っていよう。陸上自衛隊は、実戦技術向上を義務付けされる事となった。そこで、その講師を皆に紹介する。
名を框矢と言う。彼には日本に半年に一度、一ヶ月間滞在し、訓練中諸君らと相対して貰う事となる。25歳の彼と同年齢、同世代の者も、より歳を重ねている者も居よう」
朗々と発せられる声は、叫ぶ訳でも無いのに良く通った。框矢はスッと二歩程前に出ると一つ頭を下げ、また長官のやや後ろへ戻る。
「今回は初めて故、私も滞在する。彼を外見から侮ってはならん。実戦訓練は明日より開始する。以上だ」
「……」
「……」
皆、口にこそしないが不信色を眼に隣と視線を交わす。
本当に、こんな唐突に現れた青年に講師が務まるのか。
しかも見れば見る程、自分達よりも若いし鍛えているようにも皆目見えない。
長官の命だとは言えど、本当に何処の誰かも知れない彼に実戦訓練付けて貰うのかと思うと、皆気が重くなるのを感じた。
あんな細身の青年を、侮るなと言われてもなぁ、と。
幾ら長官から言われたのだとしても、中々納得出来ないのが本心だった。
だが。
翌日の訓練で、彼らの疑惑は吹き飛ばされる事となる。
「個人差を見たいので、一人一人と交えたいと思います。順番は問いません。実戦訓練ですので、各々一番手馴れた物で、本気で向かって来て下さい」
スラリと瀧宗を抜刀し、鞘を長官の元に置いて訓練場所の平地に立つ。
そして構えもせず、隙だらけで立つ框矢。そんな彼の姿に、隊員達のざわめきはとうとう耳に届くまでの大きさになった。
「私語を慎め!長官の前なのだぞ!」
幹部の叱咤に静まり、一人、不意に進み出る。
「私から始めても宜しいでしょうか」
「あなたは?」
「普通科、三等陸曹の蓮田丈紀であります」
框矢が一つ頷き、ほぼ同時にいざ!と彼に向かって駆け出す。
蓮田が素手で向かって来るのを見て取るや、框矢は瀧宗を地面に突き刺した。
蓮田の柔道の腕前は黒帯三段。だが、決着はあっという間に着いてしまった。
突きや蹴りを僅かな上体の捻りで躱し、時に払い、鋭く無駄の無い回し蹴りを放つ。
框矢の放った攻撃は回し蹴り一回だけなのだが、それで勝敗は明確だった。
「……!」
蓮田は、この場に居る三等陸曹達の中では最も体術に優れていると囁かれていた。
その彼があっという間に負けてしまった事に、皆、長官の“侮ってはならぬ”との言葉が脳裏を掠めたのだ。
「ありがとうございました」
一礼する蓮田に、框矢は一言。
「蓮田さん。もう少し左腕と握力を鍛えて下さい」
息一つ乱れていない、物静かな声だった。
その後、召集された全ての隊員と一対一を繰り広げた框矢。しかし、五分と保った者は一人も居なかった。
体術には体術で、長剣には瀧宗で。短剣には素手で相手をし、全てに一言ずつ言い渡す。
「永野さん、右足の踏み込みが甘いです」
「多野さん。視覚に頼り過ぎです。聴覚も重視して下さい」
「林さんは恐怖心が先に立ってます。それを払えれば、格段に腕は上がるはずです」
その一言の殆どが的を得ていたことが、隊員達に衝撃を与えた。
「今、あなた方に伝えた事を、次回俺が来るまでに克服して置いて下さい。俺はまだ本気すら出せていません。次回は、五分保たせる事を目標にします」
淡々と告げると、今日の訓練はここまでにします、と一礼し背を向ける。
立て続けに隊員全員の相手をしたのにも関わらず、全く呼吸も、服すらも乱れない框矢。
隊員達の彼を見る目が変わったのは、傍目から見ても一目瞭然だった。
それを満足気に眺めていた鍵重長官は、一ヶ月経つと、框矢を連れて駐屯地を去って行った。




