生涯の師 side.33番(框矢)
それからも、明るくなって来た中を彷徨い続ける。違う路地裏で漸く腰を下ろし、改めて自分の格好がひどい事に気が付いた。
年中着ていたズボンにシャツは擦り切れ、穴が空きかけてる所すらある。
剥き出しの腕や脚は擦り傷が目立ち、靴に至っては糸の解れによってつま先や横手に穴が空いていた。
「痛ぇ……」
長時間走り続けてギシギシの関節、加えて空腹感。
擦り傷なんかは別にどうだっていい。数日もすりゃ、治るだろ。
傷よりも空腹の方が辛い。正直、体力が尽きかけていたから。でも、まだ安心は出来ない。ふらりと立ち上がると、ゆっくり歩を進め始める。
決して大通りや道路には出ず、路地や路地裏を進んで行く。何故か凄く危険な気がした。
いつしか方向感覚を失い、自分がどこを歩いているのかさえも分からないまま、気が付けば夕闇が迫っていた。
フラフラしてるのが自分でも分かる。街頭の柱を頼りに歩いて、歩きまくって。
そして少し開けた路地の一角で、俺はとうとう何も分からなくなってしまった。
次に俺が気付いたのは、どこかの部屋の中で。身体にはぼろぼろでは無い、しっかりとした布団が被せられていた。
あのボロボロの布団より暖かい布地の感触に、夢なら覚めて欲しく無くてもう一度目を閉じようとした刹那。
「気付いたか」
静かな声にバッと半ば反射的に起き上がる。離れた所から、一人の老人が俺を見ていた。
短く刈り込んだ白髪、鋭い眼光。でも敵、という感じはしなかった。
「お前、儂の家の近くで倒れとったんだぞ。服はぼろぼろ、手脚は傷だらけ。どこから来た」
「……」
このじいさん誰だ?俺を助けてくれた、のか?
こんな時、なんて言えば良いのか。俺が居たあの施設は、教えてはくれなかった。
只々、自分を見る彼を見てるしか出来ない俺に、老人は片眉を上げた。
「お前、言葉が話せないのか。助けてもらったなら、礼を言うのが筋だろうが」
……礼?
「……礼、って何だ?」
「何?教えられていないのか」
眼に驚きの色を見せ、じいさんは俺をまじまじと見てくる。
「礼と言うのはな、他人から何かしてもらった時に伝える言葉だ。“ありがとう”と言う事が多い」
「……あり、がとう?」
初めて聞く言葉。誰かとこんなに話したのも初めてだ。
「もう一度聞く。お前はどこから来た?」
目の前のこのじいさんが誰なのかも分からない。全く知らない奴に逃げて来た事を言っても大丈夫なのか?
だけど、じいさんの眼光に何故か逆らえなくて、ぽつぽつと声を押し出した。
「施設から。……FARMって名前だった気がする。いきなり火事になって、同じ服来た大人に追い掛けられて、逃げた」
正直、自分や仲間達が居たあの建物がどんな名前だったかは、知らない。
俺達に激痛を何回も与えてきた白い服の大人達が、そんな名前なんだと言っていた気がする、ってだけだ。
「FARMか。世間的には孤児院だった建物だな。……名前は?」
「……え?」
「お前の名前だ」
そんなもの知るわけが無いのに。俺も仲間も皆、番号だったんだから。
「33番」
「何?33番だと?」
答えた途端、じいさんの眼光が鋭くなった。あの噂はもしや本当か……と呟き、また俺に眼を向ける。
「お前、その建物でどんな生活してた?」
「毎日少しの食事をもらって、言葉と算数と英語を習った。服は年中同じ。外には一度も出させてもらえなかった。白い服の大人が俺達に何かしては……身体中に激痛が走ったんだ」
注射とかいうやつで刺される度、頭が割れるんじゃないかってくらいに痛くて痛くて……。
「2番も10番も。25番に30番も……あの注射とかいうやつをされた後、苦しんで死んだ。
大人は、“失敗した”ってよく言っていた」
「……“失敗した”。
お前は、その建物から逃げてきたって言ってたな。知人からの噂だが、FARMは表向きは孤児院として子供を受け入れ教育するが、裏では違法な人体実験を繰り返していると聞いた。
……多分、お前が居たのはその施設だろう」
「……い、ほう?」
「法が違うと書く。この国には法律という守らなくてはならんルールがある。
その法律に背くと刑罰を受けなければならない。違法な事をするということは、この国のルールを破ったという事だ」
じいさんはぶっきらぼうに説明すると、部屋の端にあった鍋から器に何かをよそって俺に渡した。
「食え。飢えた狼のような顔してるぞ、お前。熱いから気を付けろよ」
パンじゃない。……あの野菜の欠片が浮いたスープでもない。木で出来た器に野菜や肉が結構入っている白い液体。
「何だ、これ?」
「シチューというものだ。食べた事が無いみたいだな」
「パンと野菜の欠片が浮いたスープしか食べたことが無い」
じいさんは驚いたように目を見開いたが、ともかく食え、と俺に促した。
「……」
恐る恐るシチューを口にして、その美味さにまじまじとシチューを見つめ……次の瞬間、凄い勢いで平らげてしまった。
熱さなんて気にもならないくらいに。
「こんなに美味いものを食べたの、初めてだ」
ぽろっと漏れた本音に、じいさんは吹き出して笑うともう一度よそって渡してくれた。
「お前、世間知らずなんだな。しばらくここに留まれ、ある程度は世の中の事を教えてやる」
腕組みして俺を面白そうに見てから、じいさんは隣の部屋へと消えていった。
そうして数日して体力が全回復すると、ある場所へと俺を連れて行った。
窓も何も無い、四角い空間が広がる部屋。
「お前がFARMに居たなら、多分何かの能力を持たされてるだろう。全力でそれを見せてくれんか?……なに、破壊する能力でもなければこの部屋は壊れん」
命を助けてもらったんだ。断わる理由も無いよな。
一つ頷くと、腰を上げ、両手を床に付けた前傾姿勢をとった。
弾かれるように床を蹴り、壁を踏み台にし、床に壁にと縦横無尽に駆ける。
スウッと息を吸い込むと、一気に加速させた。眼の端に見えるじいさんの姿がぼやけるくらいに。
今の俺のトップスピードだ。
俺に与えられた能力は、身体能力。瞬時に眼に捉えた物との距離を測定出来るし、結構な瞬発力や脚力、腕力に握力も持たされた。
体力、持久力、忍耐力、聴力や嗅覚は至って人並みだけどな。
暫くして、じいさんの近くで急停止した。これくらいならそこまで息が乱れる事もないし。
そんな事を思いつつ、現時点で自分で分かってる所を付け加える。
「後は……腕力に握力と瞬発力、あと視力、暗視が出来る。俺を調べた白い服の大人がそう言っていた」
「身体能力が超人的、と言うことか。……いや、目の当たりにすると凄いものだな」
目を丸くし、そう呟いたじいさん。だけどスッと真顔になると、人前では見せるなよ、と言ってきた。
「なぜ?」
「いいか、普通人は良くたって数百m位しか見えん生き物だ。この国、日本は特にそうだが、他人と合わせて行動することが多い。
スポーツ選手すら軽く凌駕するお前の能力は、恐らくばれたら人間では無いと怖れられるだろう」
「……?」
り、りょうが?なんだその単語。スポーツ選手ってものもよく分からんし。
「……まぁ、後で教えてやる」
首を傾げた俺にフッと笑うと、お前の身体能力はな?とまた話し出す。
「日本は戦争が無い平和な国だ。その超人的……他人には到底追いつけない程の高い身体能力は、使い方を誤れば周りの脅威にもなる。この国では違法となる他人を殺す行為、その武器とも見られかねないんだ」
「……」
「余り公にするな。この国で生きるなら、その身体能力は出してはならん。お前の為になるまいよ」
取り敢えず、全力で走ったりジャンプしたりはするなってことか。
何となくの意味を感じてコクッと頷くと、じいさんは穏やかに笑って帰るぞ、と部屋を出た。
「お前、漢字や単語もあまり知らんのだろう?教えてやる。
日本語はひらがなや片仮名、漢字や数字で出来とるようなもんだからな。知らなければ不便だぞ」
じいさんの家に戻り、その日から勉強が始まった。
どうして俺にこんなにしてくれるのか、良く分からない。俺だってじいさんが誰なのか、名前は何て言うのか知らない。
じいさんだって俺と会った事は無いし、家族でも無いはずなんだ。
ある日、それを聞いてみた。
「何でだろうなぁ。儂にもよく分からんよ。……気まぐれ、とでもしておこうか」
可笑しそうに笑い、その後もじいさんは俺に漢字や単語やある程度の敬語を教えてくれた。
自身はダイル・アルーノって名前なんだって事も、刀鍛冶職人だって事も。
当代一の名工は?と問われれば、間違い無くダイルの名が挙がるらしい。そんなに凄い人だったのか、と驚くしかなかった。
“どれだけなまくらな刀も彼にかかれば、新品同様・手をそっと当てただけでその手に怪我を負わせる位の切れ味に戻る”
“刀を造らせれば、恐ろしい程の切れ味を備えた強靭な刀を生み出す”
そんな風に讃えられ高額で取引されるけど、ダイルはさして興味が無いらしい。
独自の製法を確立させ、その製造方法は誰にも分からないのだとか。
俺ぐらいの年からずっと内戦地域を渡り歩いて生き延び、71歳の現在もこんなに元気だって聞いて、また驚いた。71歳って言ったら結構な高齢な気がするんだけど、ダイルは年寄りっぽく無い。本当はもう少し年が下なんじゃ、って思ってしまう。
俺が刀に興味を示したら、刀の修理方法や研ぎ方を教えてくれた。製造方法だけは頑として教えてはくれなかったけど。
「お前は筋が良いな。世が世なら、武人、もしくは良い職人として名を残せただろうに」
しみじみと言いながらも、研ぎ石を無駄にする気か!と容赦無い一撃を頭に食らわされる。
「ダイル痛ぇ!頭がへこんだらどうすんだよっ」
「お前は若いんだ、そんな心配せんでも良い」
あまりの痛さに涙目で訴えるも、若さを理由にかわされてしまう。
そんなやり取りを繰り返し、俺は刀の製造以外の知識、サバイバル技術、生活に必要な知識をダイルから習得した。
「……ところでお前、これからどうするつもりだ」
ある日、ダイルからそう聞かれて思わず考え込んでしまった。
どうするつもり、と聞かれても考えたことが無い。持たされてしまった身体能力を活かせるわけでは無く、特にこの国で何かしたいという訳でもない。
「決まったら言え。餞別をくれてやろう」
その言葉にただ頷くしかなかった。
数日間、ずっと考え続ける俺の頭の中には、今まで頭を掠めた事も無かったことが浮かんでいた。
自分の生みの親のことや、この国……この世界に自分が普通に暮らせる居場所は有るのか、と。
何度も繰り返し考えて漸く纏まった考え、それは。
“自分を受け入れてくれる、居場所を探す”ことだった。
それをダイルに告げると、うむ、と頷き俺を食卓の一角に座らせた。
「日本どころか、世界には必ず通貨があるのは教えたな?この国では“円”が通貨だ」
いきなりの言葉に面食らいながら、差し出された紙幣や硬貨を眺める。
「一円が十枚集まると十円に、十円が十枚集まると百円に。そして千札、五千札、一万札。
とまあ、硬貨も紙幣も種類があるが、俗に金と呼んでいる。金が無ければ何も出来ないのがこの世だ。食い物も飲み物も、生活に必要な物も全て、この金が無ければ手に入れる事が出来ん」
相変わらずのぶっきらぼうな口調で、金をトントン、と指で叩くダイル。
「その金を手に入れる事も必要になってくる。道端に落ちている訳でも無いからな。もちろん他人の金を取れば、窃盗罪という違法行為になる。
金を手に入れるには、お前が自分で働くしか無い」
そう言って、仕事の見つけ方、“職場”での人間関係や接し方、働いてもらう金の事を給料と呼ぶ、などを教えてくれた。
そうしてひと息吐くと、徐に部屋の隅にあった物を取ってきて食卓に置いた。
「こんな物しか揃えてやれなんだがな、お前の最低限の衣類と靴だ。それからリュックサック。
儂の数少ない、古くからの友人をあたって、取り寄せてもらった物だ」
いつの間にこんな物を?
ぱちぱちと目を瞬かせる俺に、ダイルは少し待っとれ、とまた立ち上がり隣の部屋へ行ってしまった。
少しして戻ってきた彼は、一刀の刀と小ぶりな一対の研ぎ石、そして短剣と細長い入れ物を腕に抱えていた。
それは、ダイルからの最大の餞別で。食卓にそれらを置き、俺を見てその眼光がふっと和らいだ。
「持っていけ、儂から直にお前にやれる餞別だ」
「えっ」
まじまじと食卓上の研ぎ石と刀を見る。
鈍く黒光りする納刀状態の刀。殆ど反りが無い為に、杖のように見える。
下緒どころか鍔も無い。柄部分には朱い蔓の様な模様が描かれていた。
「珍しいな、鍔が無いなんて」
造刀作業を眺めてた時も、研ぎ方や修復作業を習っていた時も、全部に鍔があったはず。
「抜いてみろ」
ダイルに従いゆっくりと刀に手をやり、刀身を出した。やや細い刀身に緩やかな波状の刃紋。その美しさと軽さに思わず見惚れた。
「それはな。刃渡り75cm、細直刃、互の目大乱れ刃紋」
「……?」
「わしの造った強靭さ、切れ味。全てにおいての最高傑作だ」
「そ、そんな良い刀を?!」
「フフフ……刀の良さや違いがわからん有象無象共の手に渡ったり、このままここに眠らせるよりも、お前と共に行くほうがこの刀にとっても幸せだろうよ」
「……」
「その刀、もう一度しまって柄を下に振ってみろ」
「ん?……あぁ」
言う通りに柄を下に振ってみる。が、……抜けない?
力任せに振っても抜けなかった。まるで鞘に張り付いてるみたいだ。何で抜けねえんだよ!
そんな俺を見て、面白そうにダイルは笑った。
「水平に持って抜いてみろ」