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マガイモノ〈未改訂版〉  作者: 海陽
マガイモノ
30/60

あの子は何処に…… side.???

秋田県、ある集落。


僅かに過疎化に向かうその集落に建つ、一つの小さな一軒家。



「……」


「……(みどり)


縁側に座って、小さな溜息を吐いた彼女の側に腰掛け、妻の肩をそっと抱く。



私も翠も、齢は共に40歳を少し過ぎた。


時折溜息を吐くその身体を、優しく抱き締めて落ち着かせてやる事が、習慣になっていた。



「……あの子、何処に行ってしまったの」


「……」


「もう一度逢えるのかしら……」


もう何度目になるだろう。この台詞が漏れるのは。



あの日、散歩に出掛けた時。


見知らぬ男達が現れ、あっという間に奪われてしまった、たった一人の愛息子。


まだ一歳にもなってなかったのに、私の腕から強引に連れ去ってしまった。


抵抗したが敵わなかった。


追い掛けても追い付けず、警察に届け出ても大した捜査もしてくれなかったのだ。


類似した事件が全国で頻発しており、人出が足りて無いんです、と言って。


「きっと、生きてるよ。そう信じよう。じゃ無いと辛過ぎる」


呟く様に言い聞かせ、寄り添い、更に彼女を抱き締める。



(けい)、お前何処に……。



宙を見上げ、そう思わずにはいられなかった。


生きていれば今頃は、立派な成人のはず。


自分によく似た、漆黒の髪を持っていた幼い息子を思い浮かべて胸が苦しく疼いた。


警察は頼りにはならず、五年、十年と経てば経つほど、絶望感が襲って来る。


息子を授かった頃、私達はまだ22歳と21歳で。駆け落ちして逃げて来たこの集落で、父から盗んだ修理の技を駆使して、集落の人達の足である自転車の修理の店と、小さな畑で家庭菜園をしながら過ごして居た。


慎ましくても愛する妻と二人、幸せだったんだ。


そんな中で産まれた第一子。



慶と名付けた息子は、本当に可愛くて仕方が無くて。親ばかだと自分達で自覚する位、溺愛していた。


慶の一挙一動に喜んで、ここが私に似てる、妻に似てる、と毎日が至福だったんだ。


それなのに。それなのに、あの男達がそれを粉々に打ち砕いて行ってしまった。



私達が何をしたって言うんだ……?



何も、悪い事なんてしていないのに!



慶が居なくなってから、度々店を休んでは息子を捜しまくった。それはもう、死に物狂いで。


何度も警察にも行った。だけど毎回答えは一緒。


“人出が足りて無いんです”


絶対に嘘だ!


そう思ったけれど、それを彼らに吹っかける程の度胸も無くて。



そうして数年が経った時、翠の身体に異変が起きた。




子宮癌。




助かるには全摘出しか無かったんだ。……彼女は、二度と子供を授かれない身体になってしまった。


慶を失い、二度と子供も産めない。


その事実が翠を更に追い込み、見ている私も辛くて仕方無くて。



数年掛かりで全快したものの、それでも私達の胸はぽっかりと穴が空いた様に虚ろになってしまったんだ。


年が明け、息子の慶を失って二十二年目になった。



初秋のよく晴れた日、彼女を誘い、外に出掛ける事にしたんだ。


昔の明るくてはつらつとした翠はもう、居ない。慶を失ってから、徐々に悲しみに沈む日が増え、脆くなっていってしまったから。


そっと細いその手を握り、彼女の歩幅に合わせて集落の道を歩く。


大分涼しくなって来たね、と話し掛ければ、そうね……もう山の方は紅葉が始まっているみたい、と返って来る。


弱くても、微笑んでくれるだけですごくホッとするんだ。


もうそろそろ帰ろうか、と帰途に付いて暫くした時だった。翠の歩みが止まったのは。


「翠?どうし……」


丁度、一人の青年が傍らを通り過ぎて行った所で、彼女の陰りのある眼はその青年を追っていた。


気付けば、彼に近寄りながら声を掛けていたんだ。私が止める暇も無く。



「ね、そこのあなた、待って……!」


ピタリ、と足を止め、ゆっくり妻の方へ振り向いた青年。


「はい、何か?」


思わず息を飲んだ。


その青年は、私の二十年前の姿に、良く似ていたんだ。


漆黒の、目に僅かにかかる位の短髪。175cm程の身長に鋭めの目。


細身の彼は本当に、若い頃の私に良く似ていて。翠はそんな彼に、息子を重ねたのかもしれなかった。


もし、慶なら。きっと、こんな姿に成長したんじゃないか、って思ってしまう容姿だったから。



「あなた、お名前は何て仰るの?お年は?」


まるで縋るような勢いに、静かに落ち着いて下さい、と両手の平を彼女に向ける。


「翠。落ち着いて、彼の言う通りだ。

……申し訳ない、いきなり話し掛けられて、さぞ驚いたでしょう」


そっと彼女の肩に手を置き、身体を後ろへ下がらせる。


「いえ」


短く答えた彼は、翠が落ち着くのを待ってから、一つずつ彼女の問いに答えてくれたんだ。


「俺の名前は、框矢と言います。年は……22です」


慶じゃない。



名前が違う事に、内心がっくりしつつも年齢が合っている事が気になる。


「旅をしてるのかな?良かったら一泊、泊まっていかないか。これも何かの縁だからね」


気付けばそう、彼に言っていた。翠もその提案に明るい顔で賛同してくれたんだ。


「……いえ、遠慮します。ご迷惑をおかけする事になりますし、この時間なら、急げば日没までには次の市に入れるでしょうから」


腕時計を確認しながらそう返した彼を、引き留めたのはなんと彼女で。


「お願い、泊まっていってちょうだいな」


裾をそっと掴み、歩み出そうとする彼を止まらせる。


その瞬間。


バッとその手から裾を外し、素早く一歩離れたんだ。


「……あ、申し訳ありません。俺、他人にいきなり触れられるのに慣れてないものですから……」


「いや、妻こそ悪い事をしたね。事情もあるだろうに引き留めたりして。

……君が、失った息子に見えてしまったんだ」


「……」


私の言葉に、微かに目を見開いた彼。


翠の、こんな明るい表情を見るのは本当に久しぶりで。昔の彼女が戻って来た気がしたんだ。


そっと彼に近寄り、翠から離れて二人で話をする。


「誘拐された息子は、生きていたら君と同い年になる。……君は昔の、二十年前の私に良く似ているんだ。初対面なのに、他人とは思えない……。

妻の、あんな明るい顔は本当に久しぶりでね。無理にとは言わない。一晩、泊まっていってくれないか」



夫婦揃って、初対面の青年に何を言っているんだか。



きっと断られるだろう、と覚悟していたんだ。


彼は長い事、考える素振りを見せていたが、緩慢に私を見て来た。


「ご迷惑になりませんか」


「迷惑だなんてとんでもない。私達から言い出したんだ、君はそんな事を考えなくても良いんだよ」


それでも暫く躊躇っていたけれど、ではお世話になります、と頭を下げてくれたんだ。


「名字は何て仰るの?」


「……」


翠の問いに、少し困った様な色を浮かべて黙り込む青年。


数分程して、俺に名字は無いんです、と言葉を押し出した。



「俺には名前しかありません。親も居ませんし、その名前も恩師から貰ったものです」


「育ちはどこか聞いても?」


私の問いには遠い目をする。


「恐らく東京のどこかだと思います。……俺は施設育ちですから、詳しい土地名は分かりません」


まるで冬の湖面の様な表情。聞いてはいけなかったのかと思ってしまった。


「その施設は今もあるのかな?」


「……取り壊されました。孤児院とは名ばかりの、酷い施設でしたから」


「酷い施設……」


「ええ。ろくに食事は出ない、寝具も無い。挙げ句の果てには職員からは色々されました」


「い、色々?」


容易に聞いてはいけなかった言葉が彼から出て来た事に、ただ、おうむ返しに尋ねるしか出来なくて。


「ええまあ。……あまり、ここでは話さない方が良いでしょう。耳には悪い事ばかりですから」


彼はそっと言いつつ、翠をチラッと見やる。それは、彼女には聞かせない方が良いでしょう、と気遣ってくれてるのだと分かったんだ。


話題を変えて、言葉少なに問いに答えてくれる彼を家に案内する。


「さぁ、どうぞ上がってちょうだいな」


彼女の言葉に、暫く廊下を眺めていた彼は、緩慢に靴を脱いで廊下へ上がる。


「……お世話になります」


今日はご馳走を作るわね、と私に笑いかけ、奥へと消えた翠に背を向けて居間に彼を導いた。


座る様に言っても中々座らずに、また部屋を見回す。



どうして、そんなにも警戒する素振りを見せるのだろうか。



私達は何もしないのに。


漸く安心したのか、私が指した場所に腰を下ろした彼。律儀に正座で、言っても崩そうとはしなかった。


「……申し訳ありません」


唐突に耳に届いたそんな言葉。何に謝ったのか分からず、首を捻ればゆっくり私の眼を見つめて来たんだ。


「昔から、物騒な目に遭う事が多かったもので、警戒する癖が付いているんです。

お気に障られた様なので……」


その言葉に、ドキッと胸が音をたてる。読心術でも修得してるのかと思った。


「物騒な目、とは?」


「……まあ色々と」


それ以上話そうとはせず、俯き気味になる彼。確か框矢って名前だったな。


「框矢、だったね。名前で、呼んでも良いかい?」


どうぞ、と一つ頷き、翠が持って来たお茶に手を伸ばす。


「美味しいですね、このお茶。暫く水分を摂ってなかったからなのかもしれませんが」


呟くようにそう言って、茶碗に視線を落とすと残りも飲み干した。


そんな彼の様子を見ていたけれど、本当に良く似ている。


漆黒の髪と目つきの鋭さは特に。


「良かったら、君の話を聞かせてくれないか?どうして旅をしているのか、昔の話とかも」


昔の話ですか……、とポツリと漏らすと、考え込む様子を見せる。


「内容によってはお話出来ない事もあります。何からお聞きになりたいですか」


そんな切り返しに、逆にこちらが考えてしまう。何か聞くにしても順序というものもあるし、あまりに不躾な事を聞くわけにもいかない。


「施設が取り壊されたと言ったね。その時、框矢は施設に居たのかな?」


「いいえ」


私の問いに短く答える。彼は何か考えながら、また口を開いた。


「16の時、あまりにあの施設が酷いので、耐えられずに脱走しました。物心ついた時から暮らしてきましたが、良く生きていられたな、と自分でも思います」


「だ、脱走?!」


予想もしてなかった答えに、目を丸くする。違う施設に保護されたとばかり思っていたんだ。


「それから割と直ぐに、取り壊されたと聞きました。他の子供がどうなったのかは分かりません」


淡々と話し、一度口を噤むと空になった茶碗をテーブルに戻した。


「脱走して自由になったは良いものの、そこが何処だか全く分からないし、自分の服はボロボロで。

表に出るわけにもいかず、路地や裏路地を彷徨ってた所を恩師が助けてくれたんです」


“恩師”の単語を口にする度、彼の声音に明るさが伴う。


「彼は世間知らずの俺に、知識を、世間の事を教えてくれた。初めて人間として、俺を対等に扱ってくれたんです。

そして名無しの俺に、名前をくれました。その時から、俺はずっと框矢として生きています」


恩師の事を聞いてみたが、彼の事は明かせません、と首を振られてしまった。


「恩師が、そう望んでいますから。彼との約束だけは絶対に破りたく無いんです」


きっぱりとした口調に、彼の恩師の事を聞く事は諦めざるを得なかったんだ。


「幾ら名無しとは言え、施設での呼び名はなかったのかい?毎回“お前”なんて呼ばれていたら、他の子供達と判別がつかないだろうに」


「……」


聞いた途端、框矢は目を伏せた。あまり話したくない、とでも言うように。


「あ……いや、話したくないなら言わなくても良いんだよ。悪い事を聞いてしまったね」


彼に慌ててそう言ったけど、首を振ると静かに答えた。


「33番、と呼ばれていました」



33番……?



33番と言うのは、物を数えたりする時の、数字の33の事か?


「まさか、そんな……人扱いされて無かったって事か?」


茫然として口にすれば、そうです、と否定しない。


「俺だけで無く、他の子供も皆番号で呼ばれ、犬畜生並みの扱いを受けて来ました。

あんな施設、潰れて当然だと漸く思えるようになったのは、数年前からです」


少し遠い目をすると、ひと息ついて徐にまた口を開く彼。


「物心ついた時から既に33番でしたから、その前に別の名前があったのかは分かりません。

今は友人と理解者も居ますから、特に何とも思いませんが」


人扱いされなかった過去があって、どうしてこんなにまともに成長したのか。



目の前の、この物静かな青年がそんな過去を背負っていたなんて、誰が想像出来る?



どうして妻には聞かせない方が良いんだ?と思っていたが、彼は正しかったんだ。これは翠には聞かせたらいけない。


聞かせたらきっと、ショックを受けてしまうだろう。



「あなた?悪いけど運ぶの手伝って」


「あ、ああ今行くよ」


奥から聞こえた彼女の声に応え、腰を上げる。


「俺もお手伝いします」


そう言う彼をその場に押し留め、奥へと向かった。



今聞いた事は、絶対に話せない。



そう、胸に誓いながら。


煮物や味噌汁、和え物……と品数が多い夕食をテーブルに並べ、箸と湯呑を渡す。


「頂きます」


そっと手を合わせた彼に、私達も手を合わせて箸を進めた。


「どうかしら。口に合うと嬉しいのだけど」



その言葉に、私もそっと彼を見やる。だけど彼はずっと黙々と箸を進めては飲み込んでいて。



一度、湯呑に口を付けると漸く私達を見てくれた。


「美味しいです。……とても懐かしい味がします。初めて食べた味なのに」


本人は心なしか不思議そうにしていて。確かに彼が翠の料理を食べるのは初めてだけれど、それは私達も感じていたんだ。



何故か、框矢とは以前にも一緒にテーブルを囲んだ気がして。



「……きっと気のせいですね」



彼はそう呟いて、小さな笑みを見せた。


その笑みは本当に小さなものだったけれど、彼が私達に見せてくれた、初めての笑顔だったんだ。


そしてその仕草。口角を少し上げる程度の笑みは、それすらも若い頃の私に似ていた。


良く、周りからは感情が薄い、無表情な奴だと言われていた私に。


見れば見る程、若しかしたら何処か血が繋がってるんじゃないか、って思えてくる。



けれど。

彼は、その物静かな眼の奥に……何か冷たいものを潜ませているようにも思えて、もし息子であったとしても、そんな冷たいものを宿していて欲しくなかった。


こんなにも良く似ているのに、何処かが違う、何かが違う、と言っている自分が居たんだ。


一晩明けて朝食を済ませると、一宿の恩返しに、と彼は家庭菜園の畑の肥料蒔きや土壌作りを手伝ってくれた。


大量の腐葉土や肥料を運ぶのは私達にとってはかなりの重労働。なんせ一袋で25kgもある。


二人で一緒に運んで漸く移動出来るのに、彼は軽々と担いで運んでしまった。


それも二袋同時に担いで!


「まぁ、力持ちなのね!」


「え、ええ……まあ。少しばかり鍛えてましたから」


翠の感嘆の声にぎこちない返事を返す。心なしか、表情も硬い。一瞬の事だったから、彼女は気付かなかった様だけど。



何故そんなに硬くなるんだ?



浮かんだ疑問を彼に聞くタイミングが無いまま、農作業を終えると荷物を纏め始めた框矢。


「え、もう行ってしまうの?」


「はい。……これ以上ご迷惑をおかけするわけにはいきませんから」


静かな、彼の声を聞いた瞬間。まだ引き留めたい、と激烈な思いに駆られた。


こんなにも自分に似た彼と、今別れてしまったら、もう二度と会えない気がして。


框矢を引き留めようと口を開いたその時、小さな影が私達の下へ滑空して来るのが見えたんだ。


「ああ、来たのか」


呟く様に漏らし、その影に向かって腕を伸ばす彼。


あっという間に、彼の腕に舞い降りたもの。それはとても立派な体躯をした、猛禽類だった。


背中に担いだ細長いケースに猛禽類を停まらせ、その脚の銀筒から取り出したメモに眼を走らせる彼は、何だか凄く様になっている。


ヒップベルトのポケットからボールペンを取り出して、持っていたメモを裏返して何かを書いた。


それを猛禽類の銀筒に戻して蓋を閉めると、頭を撫でる。


彼のその表情は、とても優しいものだった。


猛禽類はピィ、と一声鳴いたと思ったら、これまたあっという間に羽ばたきして飛んで行ってしまったんだ。


この一連の間、私達は声を掛ける事すら忘れてしまっていたんだ。彼の姿に、見惚れてしまっていて。


「き、框矢?今のは?」


「俺の友人の相棒の隼です」


漸く聞けた新たな疑問に、短く答える彼。だけどそれ以上は答えない。


「彼から何て連絡が来たのか、聞いても?」


その問いには直ぐには答えず、黙り込む。けれど数分程して、私達を見てきたんだ。


「追手が掛かったから、長く留まらない方が良い、と」



お、追手?!彼は一体何を……。



「俺は何もしていません。それだけは信じて下さい」


懇願するでも無く、淡々と口にする。


「俺の過去は、人に言える様なものではありません。明かせば一般人から、怖れられてしまう事が殆どだからです。そんな俺の過去を知っているのはごく僅か。

その一人に、俺に追手を掛けている奴がいます。己の夢とやらの為に、身勝手に周りを巻き込んで、俺を手に入れようと接触して来る」


「夢?」


夢、追手、身勝手……?繋がりが良く分からない。


それに框矢の過去。

酷い扱いを受けた孤児院の事以外にも、更に暗い過去を背負っているんだと、言っている様にも聞こえたんだ。


だけどそれを聞く勇気は湧かなかった。


「あくまで本人は夢だと言ってますが、俺からすればくだらない野望でしかない。そんな野望なんかの為に、利用されるのは御免です。だから協力を拒否した……その結果が、俺に向けての追手なんです」


「何故、協力の拒否が追手に繋がるんだ?もう少し解り易く説明してくれないか」


瞬きと共に私に眼を向けた框矢は、徐に再度口を開いた。


「あいつは、野望の為に俺を手に入れたいんですよ。他人よりも高い身体能力を持つ俺を。大方、武力向上の為でしょう」


武力向上の為に。彼を手に入れようとしている?



平和な、戦争をしないと法律で定まっているこの日本で、武力向上……?


そんな事、あり得ない。そんな事をすれば逮捕されてしまうに決まってるんだ。


弓道や柔道、空手の様に、競技としての向上ならともかく。


「接触して来る度に、返り討ちにしてますが諦めが悪い。あいつは、使えるものは何だって使う。それが例え無関係な人間であっても。自分にとって利益になるかどうかで、相手を判断するんですよ。

どうやら俺は、あいつにとって有益とされた様でしてね。俺を手にする為に、何度も追手を出して捕まえようとしてるんです」


フゥ、と溜息を一つ吐くと、荷物がしっかり身体に固定されているのを確認する。


「……どうか、何者にも俺について聞かれても、知らないと答えて下さい。あなた方を巻き込みたく無い」


「そんな……、そんな事出来ないわ。こんなにも夫に似てるあなたと、会っていないことにするなんて」


框矢に手を伸ばす翠に、彼は憂いに満ちた眼を向ける。


「俺も、正直初対面とは思えない懐かしさをあなた方に感じました。けれど、俺のそばに居ることは危険なんです。

……分かって下さい」


最後はまるで、言う事を聞かない子供を諭す様な声音になっていて。


「俺は運なんて物は信じません、でも。いつか運があったなら、またお会い出来るでしょう。

その時は追われているような立場では無く、平穏な中でお目に掛かれる事を願います」


そう言って、ぎこちない動きではあったけれど、彼はそっと翠を抱き締めたんだ。


彼女を離すと、私に眼を向ける。腕を差し出せば、ゆっくり抱き締めてくれた。


僅かに、自分より背が高い彼にハグされて、やっぱり框矢は私達と何処か関わりがあるのでは、と感じてしまう。


「どうか、三秒だけで良い。目を瞑っていて下さい」


「え?でも……」


彼の願いに何か言おうとする妻を制し、お願いします、と被せる様に言って来る。


「分かった」


そっと妻を引き寄せ、手で目を覆うと自分も目を瞑る。



「ありがとうございます。……お元気で」



彼の声が聞こえ、三秒経って目を開いた時。彼の姿はもう、どこにも無かったんだ。


たった三秒で、例え走っても遠くに行けるはずが無いのに、まるで消え失せたかの様に居なくなっていた。

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