彼の行方 side.鮫島
「気付いたかね、鮫島君」
目を覚ました時、真っ先に見えたのは長官の顔だった。
上体を起こして状況を尋ねると、この部屋は陸上自衛隊長官のみが使える、長官邸の一室なのだと言う。
「驚いたよ。君から電話が来たと思えば、声の主は框矢だったのだから」
静かに聞こえたその言葉に、ハッとする。
そうだ。框矢は無事なのか?!
「いつも冷静な彼が珍しく、切羽詰まった口調でな。君を助けてくれ、と頼んで来たのだよ。
理由は今は聞かないでくれ、君が意識が無い重症なんだ、と」
それで私の直属の部下にヘリで迎えを寄越したんだ、と続ける長官。
「助けて頂いて、ありがとうございます」
頭を下げれば、ふっと柔らかい笑みを浮かべ、近くのソファに腰掛ける。
「部下が私に、彼から伝言を預かったんだ。
私の力でどうか君を護って欲しい、このままでは失職してしまうかもしれない。再就職出来てもまたあの男に狙われるかもしれないから、と」
「……!」
「彼はどうやら、私や君の先の先を見ているようだ」
脚を組み替え、背もたれに寄り掛かる。
「……君の携帯で、彼に回復に向かいつつあると告げた時、言っていたんだ。
“ダナニスという男は表ではどうなのかは知らないが、裏では俺を手に入れる為には手段を選ばない。自分がそうなったように、そばに居たら必ず巻き込まれ、職を失い、俺を引寄せる為の餌にされます”と」
長官はふぅ、と一息吐くと、俺を見て来た。
「君が回復したら、多分理由を話してくれるだろう。だからヘリに乗って、君に付いて来ることは出来ない、と言っていたのだと部下が教えてくれた。
聞こうか。何故、撃たれたのかを」
穏やかな彼の声をずっと聞いていて、次第に頭がはっきりしてくる。
SPを辞めた框矢を、駅まで送って行った後。カフェで彼の友人と三人で暫く話をして駐車場に戻って来た時、彼の様子が一変した事。
成人したての青年であるはずの框矢が、殺伐とした武人の気配を纏い、俺に車で去って下さい、と言ってかけ出した。
その理由がダナニス社長の手の者に追われ、追い付かれたからだという事。
追って行けば数十人もの社長の部下と対峙する事になり、その際に撃たれてしまった事。
簡潔に、重点を踏まえて説明していけば、納得がいったと言う表情をしていた。
「暫くはこの部屋で静養する事だ。周りには手を打って置く。完全に回復したら、また考えようではないか」
そう言って長官が出て行くと、部屋には俺一人になった。
窓からの景色をぼんやり眺めていると、あの路地の空き地での事が蘇ってくる。
撃たれて、何とかビル壁に寄り掛かった時。
俺が見たのは、一切の情も感じない程に冷たい眼をした框矢の姿だったんだ。
右手には赤黒い血が付いた瀧宗。そしてその鋒は、俺を撃ったらしい男の喉元に突き刺さっていて。
額や腹部からも多量の出血が見えるその死体には、手首から上が無かった。
その死体を無造作に踏み付けて瀧宗を引き抜くと、ピッと刀身に付いた血を払う。
俺に背を向け、半ば俺を庇う様に立つと、思わずゾッとしてしまう様な、唸りに似た声で言ったんだ。
俺に手を出したら踏み付けていた死体よりも酷い姿になるだろう、と。
虚ろに眼を開いたまま事切れている男。
脇腹の痛みに浅い呼吸を繰り返しながら、尚も何かを言っている框矢の背を見つめた。
そして突如、無数の銃声と金属音が交錯。思わず目を瞑り、開けた時に聞こえたのは。
“まだやるか”
低く怒りを含んだ声。彼の足元には、真っ二つにされた銃弾や矢が散らばっていた。
今思い出しても、あの声は身体が震えてしまう。
もう、そんな声を出させたく無い。
もう、若い彼に残酷な事をさせたく無い。
そう思って、必死に彼を呼んだ。
それなのに。
“……すぐに終わらせます。
目を瞑っていて下さい。見ない方が良い”
框矢は、俺から顔を背けるや否や、その身体能力のリミッターを外してしまった。
まるで柔らかい豆腐を切っているかの様に、大人達が深傷から血を噴き次々に倒れて行く。
首や腹、脚や腕からも血を流した死体、肉片や血痕が飛散している中で。
框矢はたった数分程で殲滅してしまった。
それから記憶が途切れている。もう一度気付いた時、見えたのは彼の顔と遮る物が無い青空だった。
舌が回らないまま、何とか長官に連絡を、と告げて。
気付いたら、この一室だったんだ。
ベッド傍に置かれた、俺の上着。裾がボロボロに破けて、着丈が短くなっていた。
その内ポケットから手帳を取り出して、パラパラと捲っていって最終ページで手が止まる。
最後のページが、一枚、破り取られていたんだ。
最終ページに残った、薄っすらとした筆圧。
眼を凝らし、ゆっくりその筆圧をボールペンでなぞっていく。
そこには、俺の重症と框矢達の住んでいる部屋へ俺を連れて行く、と記されていた。
よくよく見れば、ボールペンにも微かに血が付いていて。それが彼の血なのか、返り血なのか、分からない。
だけどこれだけは分かったんだ。
俺はまた框矢に、そして影人にも助けられたんだ、って。
それから二週間三週間と経ち、徐々に回復していった俺は、ある事を知らされた。
鍵重長官の力で、SP班長を退職させられていたって事を。
「君を退職にさせてから、暫くしてあの男が接触して来てな。鮫島君、君を捜していると言って来た」
部屋で長官に聞かされたのは、あの男……ダナニス社長が俺を捜しているという事で。
「何故?と聞いたら重大な話がある、君に取っても重要な事だろうから、是非二人で話したい、と。
……恐らくは君が撃たれたあの事についてだろう」
「それで長官は何と返されたのですか?」
「君は、私の直属の部下に加えたと告げておいた。だから悪いが鮫島君は会えない、とな」
ニヤッと口角を持ち上げ笑うと、俺を見てくる。
「あの男、鳩が豆鉄砲を喰らった様な表情をしていたよ。失職させようとしていたのが透けて見えていたからな。
前回はまんまとあやつの言う通りにしてしまったが、今回は出し抜いてやる事が出来た」
これ程愉快な事は無い、と満足気に一息吐き、一変して真剣な表情になる。
「さて、鮫島武司。
君を私の直属の部下に任命する。今後は私の下で働きたまえ。
框矢に助けられた命、今度は自身の手で掴んでおく事に、重きを置く事だ」
「はい。……長官の手足となれるよう、任務に着かせて頂きます」
「うむ。頼りにしてるよ、鮫島君」
ゆったり笑うと、長官は部下を一人連れて出て行き、また部屋には俺一人になった。
今、框矢はどうしているのだろう。
上着から携帯を取り出し、框矢の番号へ掛ける。
ところがずっと呼び出し音が続き、一分程経っても出ない。
一度切ろうとしたその時。
もしもし?と聞こえて来たのは、框矢では無く、影人の声だった。
「……影人か?」
何故、彼の携帯に影人が?
そんな疑問が浮かぶ俺に構わず、影人が話しかけて来た。
“回復したんですね、良かったです。止血しても中々出血が収まらなくて、心配してたんですよ?
框矢なんかあれから数日間、俺なんかに関わらなければ良かったのに……、なんて落ち込んでましたし”
“止血しても中々出血が収まらなかった”?
と言う事は、やっぱり影人と框矢が住む部屋で俺に応急処置をしてくれてたって事だよな。
「……なあ、そこに框矢は居るのか?」
“いいえ”
居ますよ、と返って来るかと思っていたのに、短い否定の単語が返って来る。
“今、俺達の根城には、俺しか住んでいません。彼は出て行きましたから”
「?!」
で、出て行った?!
「その携帯は框矢の物なんだろう?何で……」
“もちろんこれは框矢の携帯ですよ。俺に保管していてくれ、と預けて行ったんです。
多分あいつはまた俺を狙って来る、その時俺達の根城がバレては困るから、俺は出て行く、って言って”
「……」
“SPでの纏まった金が入ったから、その金で国内を色々見てみたいって言ってました。
俺も行き先は知らない。框矢次第でしょう。ここ東京よりは南に向かったとだけしか分かりません”
南、と言っても、沖縄から九州、四国中国近畿北陸……と多数の県がある。
そんな広大な地域から、框矢を捜すなんて無理な話。
なあ、框矢。
俺と約束したじゃないか。長くても二ヶ月に一度は連絡する、と。
黙ってしまった俺に、電話の向こうで影人が徐に口を開いた。
“鮫島さん。正直、俺もこれで良かったんじゃないかって思うんですよ。框矢はあなたをこれ以上、巻き込みたく無いから、きっとこういう行動に出たんです。
唯一のあなたとの連絡手段である、携帯を置いて行くって言う行動を”
「俺に、お前達を忘れろと言うのか……?」
そんな事、出来るわけが無いのに。
“俺は、出来る事ならそうして欲しいですね。あなたはよく出来た、優しい人だから。死に目はもちろん、怪我や危ない目にさえ遭って欲しく無いんです。
あなたにはどうしても明かせなかった、俺のもう一つの仕事。俺も框矢も、いつも綱渡り状態です。彼はあいつ、俺はこの国の法の番人の眼をすり抜けて生きてるんですよ”
まるで、自分達の生きてきた道を嘲笑うかの様な、どこか疲れた笑い声。
“だからこそ、俺達の根城の場所は知られたく無いし知られちゃいけない。
俺は便利屋との顧客としか、携帯を使いません。框矢とは一度も携帯で連絡した事は無い。けれど、俺達には別の連絡手段がある。それで繋がれるだけで十分なんです。鮫島さん、あなたはあなたの明るい道を生きて下さい”
そのまま通話を切ろうとするのを感じて、気付けば必死に懇願していた。
「待ってくれ!!
頼む、繋がりを消したく無いんだ」
“……”
切るのは留まってくれたものの、それ以上何も喋ろうとはしてくれない。
「君や框矢の過去を知っておいて……今更知らん振りしろと?俺だけのうのうと生きていけと言うのか?
そんな事出来るものか。俺はそんな都合良く物事を割り切れる奴じゃ無いんだ」
直後、溜息が一つ聞こえ、ワントーン落ちた声音が耳に届いた。
“あなたは何も分かっちゃいない。自分が住む国の大物を、警察を相手に回して生きて行くことの大変さを。犯罪は犯してなくても、警察が決めてしまえば俺達の居場所は無くなるんです”
水を被せられた気が、した。
“警察が決めてしまえば俺達の居場所は無くなるんです”
その言葉は、警察は自分達を苦しめる存在だと、言っている気がしたんだ。
“鮫島さん、あなたは本当に変わった人ですね。あの組織に居る人間とは思えない程に。框矢の戦闘能力をもろに見て、俺達の過去や実情を知っても尚、俺達に近寄ろうとする。
……そんなに俺達と絡んで居たいんですか?何が、あなたを引き寄せるんですか”
分からない。俺も知りたいよ。
「俺が知りたいくらいだよ。肝心な時に俺は役に立てなかったし、逆に框矢や君に助けられた。だけど、ダメなんだ。
繋がりが切れて欲しくない」
“……バカな人ですね、框矢が言った通りに”
長い、間を置いて聞こえた呟き。
バカでも良い。自分は框矢達と無関係だと、俺だけ安全圏に取り残されて、その場所から彼らが渦に巻き込まれて行くのをただ眺めるしか出来ないのは嫌だったんだ。
さっきよりもずっと長い沈黙。影人?と呼んでみても返事が来なくなった。
危ない目に遭うのが、必然なら。
俺も巻き込んでくれ。力にはなれないかもしれない。また肝心な時に脚を引っ張ってしまうかもしれない。だけど、俺だけはずっと、彼らを護れる立場でありたいんだ。
いつ切られてしまうか不安だったけれど、分かりました、と一言言ってくれた。
“一週間後に外出出来る様であれば、またこの携帯に連絡を下さい。渡す物があります”
そうして今度は、俺が何か言う前に通話を切ってしまった。
***************
一週間後。長官に許可を貰って久々に外に出ると、一番に框矢の携帯に電話を掛けた。
“以前お会いしたカフェの最寄りの駅、その入口の外に立って居て頂けますか。俺の相棒、雄の隼がそちらに行くはずです。写メを何度も見せて憶えさせました。
申し訳ありませんが、俺も危険は侵したく無いんです。彼の脚に付いている袋を外し、中の指示に従って頂けると助かります”
「分かった。雄の隼だな?」
“そうです。……あなたに限っては無いでしょうが、くれぐれも彼に発信機等を着けない様、お願いします。
着けられたと判断次第、俺は根城を変えます。連絡もこれっきりにさせて頂くのでそのつもりで……”
その口調は、俺を信じたい、けれど信用しきれないといった苦しみの色が滲んでいたんだ。
プツッと通話が切れた携帯を眺め、最後の言葉を反芻する。
発信機等を着けて根城の場所を捜そうとすれば、俺とは一切の縁を切る、と。
俺を巻き込みたく無いのか、まだ信用されてないのか。
どちらにしろ、無性に悲しくなった。影人も框矢も、自分達の身は自分達で護るという風に殻を硬くしている。まるで針を逆立てて我が身を護ろうとする、ハリネズミみたいに。
大人をもっと信用、信頼出来たなら、一番良いのにな。
だけど彼らにはそれは無理だと言うことも、身の上話を聞いて分かっている。
だからこそ、尚更悲しかったんだ。俺じゃ力にはなってやれないのか、って。
駅に着いて、入口付近で空を眺めていたら、遠くから小さな影が滑空して来るのが見えた。
駅舎の正面から傍に移動する。流石に正面の入口付近では目立ってしまうから。
腕を伸ばせば迷う様子も無く、一直線に俺の腕へと舞い降りた隼。それはもう見事な雄としか言い様が無いくらい、雄々しい容姿だった。
「……これか」
そっと、脚から小袋を外せば。彼は羽ばたきを一、二回して舞い上がり、あっという間に天高く小さくなって消えてしまったんだ。
長官邸の部屋にもどり、袋の中身を取り出せば、それはとても軽い、超合金のような素材の腕輪だった。
一緒に入っていた紙を読めば、腕輪を二の腕に着けて下さい、と記されていた。
直接素肌に着け、どんな状況に置いても付けっ放しにして下さい。防水なので風呂にそのまま入っても構いません、と。
“その腕輪は、俺が作りました。框矢にも同じ物を着けてもらっています。
それは猛禽類用のGPSと思ってくれたら良いです。人間には聞こえない、感知出来ない周波数に似たものを発信するように設定してあります。彼は優秀ですから、顔は憶えさせました。が、正確な位置はその腕輪を目指す様に頼んであります。
彼の脚に銀筒を付けますので、返事はその銀筒に入れて返して下さい。鳩便ならぬ隼便と考えて下されば分かりやすいかと。
時折框矢から連絡があれば、あなたにもお伝えします”
何度となく読み直して、改めて腕輪を眺めた。
これを影人が作った?
GPSを、それも猛禽類用に特化した物を?
しかも正確な居場所は腕輪を目指すように……“頼んだ”?
それはまるで、彼の相棒だというあの隼と、人間同士の様に意思疎通が出来ると言っているみたいで。
人間がそんな風に鳥と意思疎通が出来るなんて、信じられない。もし本当にそうなら、彼も特殊能力を持っているんじゃないか、って思ってしまうんだ。
左利きの俺は、右の二の腕に腕輪を嵌めた。なぜかぴったりのサイズで、何でサイズまで合わせて作れたのかも不思議で仕方なくて。
だけど、それを言い出せばキリが無い。
疑問を聞きまくって、音信不通になられるのは辛いから。
それから数日後。
俺は、長官直属の部下として任務にあたる事になったんだ。




