レポート37
私は九歳の頃の自分に戻っていた。
幼い私は、自分の部屋のベッドの上で膝を抱えて泣いていた。膝小僧は両方擦りむけて血が流れていた。肘にも擦りむいた様な傷があった。
姉貴が家に戻ってからの毎日、いつもがこんな調子だった。世界はまるでガラスの板にでも乗っかっているみたいに脆くて不安定だった。足音を立てず息を潜めていないと、足下のガラスは割れてどこか暗い淵の底へ沈んでしまいそうだった。
同じ一つ屋根の下に暮らしながらも姉貴の影に怯え、彼女の感情が爆発する度に全身が凍り付いた。
この地獄の様な日々が続くのなら、姉妹としてずっと暮らしていかなければならないのならば、姉貴なんて居なくなればいいと思っていた。祈っていた。
しかしその一方で姉貴の背負った運命について理解したいと言う想いもあった。
何故家族の中で姉貴だけが蟲使いとして選ばれたのか? 何故私たちは姉妹なのか? 何故私ではないのか? 蟲たちは一体どこからやってくるのか?
いつも答えを探していた。
ふと小さな物音に気付いて、膝に押しつけていた頭を上げて部屋を見回した。カサカサと音がする方向に目を向けると、窓の下で一匹の蟲が仰向けになって六本の脚をバタバタとさせていた。十センチ程の体調の赤黒い甲殻に包まれたカブト虫に似た蟲だった。
私はごみ箱を掴んで中身を床の上にぶちまけると、その蟲の上に被せた。中でどう言う体勢なのかわからないがごみ箱に脚が当たる音と、微かに鳴き声が聞こえてくる。材木を擦り合せた時の摩擦音みたいな声は、まるで助けを求めているようにも聞こえてきて、同情心と罪悪感が胸の底から交互に込み上げてくる。
私はベッドの上で枕を頭に押しつけて耳を塞いだ。
蟲は姉貴の分身の様なものだった。いや姉貴自信なのかもしれない。日頃の恨みを晴らしてやると言う思いと、苦しそうに鳴く蟲と姉の姿が重なってやり切れなかった。
そして枕の下で葛藤していると、人の気配に気付いて顔を上げた。
いつの間にか姉貴が窓際に立っていた。
「そ、その蟲が勝手に入って来てたんだから! 私は何も悪い事はしてないから……!」
私は姉にまた苛められると言う恐れと、自分の心の嫌な部分を見られてしまったと言う驚きに涙が溢れだして、泣きながら必死に弁解していた。
しかし姉貴は私の言葉など耳に入っていない様で、手の平の上の蟲を不思議そうに見つめている。
「この蟲が玉子を選んだ……?」
姉貴が私の顔を覗き込む様に見つめた後でぼそりと呟いた。そして何か思い詰めた顔で黙って部屋を出て行く。
私はただ安堵するだけで、姉貴の言葉の意味を深く考える事はなかった。
それからしばらくして始めて発作を起こしたので、私は原因不明の病気の事で頭が一杯になり、その日の事も随分と長い間忘れてしまっていた。
ただあの日の姉貴の言葉や、発病と共に私へのイジメがぴたりと止んだ事を思えば、姉貴は何かを知っていたのかもしれない。
こうして記憶の波の中に漂っていて、初めてその疑問が芽生えてくる。今まで姉貴に対して抱いていた感情とは全く別の思いが押し寄せてきて、私は泣いていた。
記憶の世界は、パズルのピースの様にバラバラになって四方八方へ飛び散っていく。かけらは大小様々な光の粒子となって空間に漂っていた。時には一方向に向って流れたかと思うと、私を中心に渦の様に回転を始める。
やがて粒子は重なり合って、巨大な光となって私を包みこんだ。立っているのか、浮いているのか、どちらが上で下なのかわからない。ただ心が安らぐ様な心地好さがあった。
そしてどこからか声が聞こえる。光の声。頭の中に直接響く男なのか女なのか、老人なのか子供なのかわからない声。
声は私の事を昔から知っていて、長い間ここに来るのを待っていたと言った。
「あなたは一体、誰なの……? それにここはどこ……?」
私の質問に主の姿が見えない声が答えた。
声の主は一人ではないと答える。また大勢でもないと。今私が居るのは彼らの体の中であり、外側だとも。
個と全体。内と外。陰と陽。精神と物質。
私は混乱する。笑い声が頭の中に響く。包み込む様な優しい笑い。声は語る。世界の理を。自然の摂理を。境界線についてを。
「私と世界の境界線……? 私と言う存在を形成する肉体……その輪郭が世界との境界線って事……?」
膨大な情報が全身に流れ込んでくる。全ての情報と記憶が一新されていく様に、声が体の隅々へと染み込んでいく。全ては理解できないが、意味を感じ取る心が涙を流していた。
「……全ての物質はミクロになればなる程、境界線は曖昧になっていく。素粒子レベルになればそこに境界線なんて存在しないのも同然。それでも素粒子は世界から独立して存在している。そして私も世界の中を漂う様に存在している……私は世界の一部で、世界は私の一部なんだ……」
解放される喜びにも似た安堵と、自由になる事への不安。声は語る。世界は私の中にあり、私は世界の中にあると。心は世界に繋がり、彼らとも繋がっていると。
個と全体。内と外。陰と陽。精神と物質。
「そうか、姉貴もここに来たのね……? でも何故? 姉貴はあの能力のせいで運命を憎んでいる。人生を嘆いている。世界と繋がる事で悲しみを背負うなんてあんまりだよ。それじゃあ世界は残酷すぎる。あまりにも姉貴が可愛そうすぎる……」
声は静かに語る。姉貴が選ばれた事に意味は無いと―― そして答えは見つけるのではなく育むものだと――
「蟲は蟲にあらず……? 世界と繋がった時の感覚がイメージとして固定化されて具現化されているということ? 文化や歴史的な背景が与える先入観の産物に過ぎないってことなの? もしその固定観念から脱却できればいつかは姉貴も……?そして姉貴にはただ特異点としての素質があっただけで、生まれる直前にあなたたちの問いかけに答えたにすぎない……でも、やっぱりそんなのひどいよ! 世界は繋がって一つなら、何故人によってこんなにも背負う悲しみの量が違うの! そんなの嫌だ! 納得できない! 私たちは今まで一度だって姉妹らしい会話なんてした事もないのに! 私が今までどれだけ悲しくて寂しい思いをしたのか、あなた達は全く知らないから、そんな事が言えるんだ! 姉貴を元に戻して! 私のお姉ちゃんを返してよ!」
私は溢れ出す激情に泣き叫んでいた。
周囲の光が強まって、慰める様な温かさが私の体を包んだ。
「私の名前……? 私は玉子。鈴木玉子。地球で生まれた猫耳の女。そう
、私は私……」
脳裏を琴乃ちゃんと葉月の笑顔が駆け抜けていく。そして笑った顔を見た事のない姉貴の顔が浮かんでは消えていく。お父さんやお母さんの心配そうな顔がすり抜けていくと、続いておじいちゃんとおばあちゃんの姿が現れる。
私が生まれる前に死んでしまったおばあちゃんは、私と同じ白髪の天パーをしていてこれまた同じように潰れた猫耳が覗いている。
当たり前だけど多少の類似点はあっても、皆それぞれ違う。それが個性であり自我だ。
「そうね、世界は一つだけど、決して均一ではない。生命それぞれに個性があり自我が芽生える。それがこの世界が選んだシステム。そして自我の数だけ選択肢は増えて未来は無限へと広がっていく。それが答えを育むと言う事ね……」
そしてヒトは皆、それぞれ違うからこそ他人を理解しようと努めて受け入れてきた。ヒトがこの世界に誕生して以来、連綿と続けられたシンプルエフォート(簡単な努力) ヒトは決してその事をあきらめなかった。
「でも皮肉だね。ヒトが世界と繋がっている事を理解できるのは、こうして私みたいに肉体を失わないといけないのかな。固定観念に縛られて肉体と言う境界線を飛び越せない限り、ヒトはいつまでも次の段階へは進めないよね……」
私は胸に開いた穴を見る。光の粒子が戯れる様にして、穴をくぐり抜けていく。そこは入り口であり出口。内と外を繋ぐ門。
声が響く。そして私は知る。目には見えない小さな門が、生まれつき私の心臓にあった事を。その小さな門が姉貴の出現により影響を受けて、開こうとしていた事を。肉体の死を招く為、肉体が必死に抵抗をしていた事を。突然の発作はゲートを内側から開こうとする力と、外側から閉めようとする力が衝突していた事を。
そして私は死んだのだ。胸を貫かれて。その瞬間のディッツの凶悪な瞳を思い出す。シールドに遮られて見る事の出来ない雲を思い浮かべながら視界が霞んでいったのを覚えている。そして夢は破れたのだと知る。無念が心に広がっていく。胸に開いた穴に痛みが走った気がした。
声が頭の中に流れこんでくる。言葉の海に漂いながら、魂と肉体の情報は書き替えられていく。そして感じる。門はまだ塞がっていない。まだ辛うじて繋がっている事を――
私は理解する。偶然とは言え、私の肉体で起きていたゲートを開こうとする内側の力と、ゲートを開けさせまいとする反発の力の衝突は、ディッツの攻撃による肉体的な死という手助けによって繋がることになった。
ディッツは私を殺すと同時に助けてくれたのだ。
もしあのまま発作が続いていれば、私の肉体はゲートの内側へ引きずられてひっくり返っていたはずだ。
そして私の魂はこの場所へと繋がった。いつか姉貴も辿り着いたであろう摂理の源へ。もしかしたらそれは最初から決まっていた理なのかもしれない。
光の粒子が私の胸の穴へと集まってくる。光が温かい。まるで氷山の内部に誕生した太陽の様に、私の体を内側から溶かしていく。
全てが書き替えられて一新されていく。
私は更新する。
夢は終わりではなかった。
今、始まったのだ。




