レポート22
本田が居間へ行くと、既に蝶々がコーヒーカップを片手にソファに座っていた。いつもの様に赤い綿シャツに赤いレザーパンツをはいて、朝のニュース番組を見ている。
昨夜は時間も遅かった事もあり鈴木家に泊めてもらったのだったが、もしかしたら蝶々のパジャマ姿を見れるかもしれないと言う邪な期待を抱いていた。しかし結局この時点でそれが叶わなかったとわかり本田は小さく溜め息をついた。
「昨日モンゴルから帰ってきて、しかもドタバタがあったのに早いね。まさかいつもこんな感じ?」
「どう、よく眠れた?」
蝶々は本田の質問には答えなかったが、代わりに彼をちらりと見て無表情のまま立ち上がる。
「コーヒー炒れる?」
「え……?」
予想外の言葉に、本田はしばし立ったまま感動にふけっていた。長年の付き合いの中で、初めてと言っていい程の優しい言葉だったからだ。
「どうしたの……?」
そんな本田を見て蝶々が訝しげな顔をする。
「い、いや、ちょっと目まいが……」
本田は適当にごまかしてソファに座った。
「いやあ、やっぱり朝起きたら誰かが居るっていいなぁ」
「たくさん居るでしょ、女の子が。一度婬行で捕まりなさい」
「ひ、ひどいな。なんか誤解してない? 僕の事……」
「誤解する前に、余り知りたくもないわ」
蝶々はテーブルの上に本田の分のコーヒーを置くと、視線はまたテレビへと釘付けになる。
その一言に本田は泣きそうになりながらも、無言のままだと余計に惨めになる為、気を取り直して何か話題を探した。
「し、しかし良く許可したね、玉ちゃんの事。絶対許すとは思わなかったけど……」
蝶々の表情が一瞬動揺した様に見えた。万年雪の下に垣間見えた大地の面影。しかしすぐにいつもの凍り付いた顔つきに戻る。
「体のいい厄介払いよ。いっそ海賊に殺されてくれればと思っただけ……」
そう言って、蝶々は妖しい笑みを浮かべた。
勿論本田はそれが蝶々独特の冗談だと思っていたが、感情の読み取れない紅い瞳を見ていると、たまに本心なのではないかと疑いたくなってしまう事も確かだった。
しかし、いつかその厚い氷に閉ざされた心に触れてみたいと、本田は願っていた。だがそれに相応しい男になるまでは、この想いは心の奥底にしまい込んでおこうと決めていた。今は仕事のパトーナーとしての役目を全うするだけで精一杯だった。
「そう言えば、今女王たちは船の方に居るのかな? 部屋の前を通った時、中を覗いてみたら誰も居なかったんだけど……」
本田の言葉に蝶々のコーヒーカップを持つ手が止まった。
「居ない……?」
蝶々は窓際へ歩いて行って出窓を開け放つと、コーヒーカップを空に向って投げつけた。コーヒーカップは矢の様に飛んでいき、途中で粉々に弾け散った。
光の屈折を利用して姿を消している宇宙船の船体に当たったのだ。
「船はあるわ」
「いや、応答がない。船はもぬけの殻だ」
本田が慌てて蝶々の元へ駆け寄る。右手には通信機を握り締めている。
「船を置いて……? 一体どこへ……?」
蝶々は唇をきつく噛み締めた。
私たちは桜吹雪学園の近くまでやって来ていた。
公団のマンションが立ち並ぶ敷地にある公園の一角。丁度、小紫陽花の植え込みに隠れる様にして高さ一メートル程で、二メートルほどのフェンスが設置されていて四方を取り囲んでいる。そしてその中心にはマンホールが見える。
この場所を知っていたのは葉月だった。通学途中に作業服を来た人間が作業しているのを何度か見掛けた事があって、地図で排水溝が桜吹雪学園の近くを通っている事を知り、ここを思い出したって訳だ。
なるほど。公園のすぐ横の道を5分も歩けば葉月の高校へと辿り着く。朝と夕方には制服を着た女の子が何百人とここを通っていたのだ。ピックパークがこの排水溝を使っていたとしたら、被害者の多くが桜吹雪学園の生徒だった事も十分納得できる。
「――さあ、どうする?」
葉月が聞いてくる。ピンク色の厚い唇に薄らと笑みがこぼれている。余裕の笑み。経験からくる自信の表れ。そして決断を託した信頼の笑み。そう、決断するのは私だ。行くか、戻るのか。挑戦するのか、しないのか。あきらめるのか、あきらめないのか。
私は振り返って琴乃ちゃんを見た。
「……琴乃ちゃんはここで待ってて」
「ええー、ここまでついて来たのにぃ!」
「お願い。琴乃ちゃんを守り抜く自信までは無いんだ。わかって……」
「ここからはもう遊びじゃ済まないから、その方がいいわ」
私と葉月にそう言われて、琴乃ちゃんは唇を尖らせてしぶしぶ頷いた。
「わかった。その変わり無事に帰ってくるって約束だよ」
「うん。絶対約束は守る! そうだ。これ渡すの忘れてた。お守り代わりに持ってて」
私はシルバーのブレスレットを渡す。それと同じ物を私は既に右手に付けている。
「なに、これ……?」
「対凶悪犯罪者用バトルコンバットスーツ。もし一人になった後で危険な場面に遭遇した時はそのブレスレットのスイッチを押して。コンマ五秒でスーツが装着出来て琴乃ちゃんを守ってくれるから」
私の説明を聞いて、琴乃ちゃんの両目が怪しく輝いた。多分、子供に本物の銃を持たせたらこんな顔をするのかもしれない。
そして私と葉月は顔を見合わせて頷いた。
「――じゃあ行きますか猫耳娘!」
「OKこけし女!あなたを伝説の見届け人にしてあげる!」
私は錆色のマンホールを開けた。灰色の空洞が出現し、差し込んだ陽の光が最低部に蓄積している濁った色の砂の表面を不気味に照らし出した。
私は鉄製の梯子に足を掛けた。
緊張混じりの期待に胸が膨らむ。
病気なんかに負けるもんか。
私は必ずハンターになってやる。
その夢と希望の答えが、この闇の先にあった。




