レポート12
森は異様な空気に包まれていた。
充満する敵意と殺気、そして無数の小さな羽音が重なって、まるで地鳴りの様に森の中を駆け巡っていた。
琴乃は必死の形相で枝から枝へと飛び移って、背後に迫る黒い霧の様な蟲の大群から逃れていた。
蟲の大群はみるみるうちに膨らんでいき、ざっと見積もっても三千匹近い蟲たちが、まるで巨大な黒い悪魔の影のように自在に変幻しながら一つの集団として追いかけてくる。
地上の草むらからは赤い光の筋が何十本と立ち上がって蟲たちを撃ち落としていたが、圧倒的な数の前では余りにも火力が脆すぎて蟲たちの前進を食い止める事が出来なかった。
しかも蟲たちの標的はあくまで琴乃一人に絞られていた為に、草むらで蠢く影たちの間では動揺と焦りが生じていた。
「待て、蟲使い! 私はお前と争う気など――話をしようではないか!」
琴乃の中に潜む何者かはこれ以上逃げ回っていても闇雲に体力を浪費するだけで得策ではないと判断し、枝の上で立ち止まると両手を広げて敵ではない事を必死にアピールした。
しかし黒い蟲の大群は勢いを落とすことなく一気に周囲を取り囲んだので、まるで黒い竜巻にでも呑み込まれたように琴乃は仲間たちと分断されてしまう。
すると群れの中から飛び出した数匹の蟲が、琴乃の頬や腕に張り付いて肌の上を歩き回った。
「――ひぃ!」
蟲は黒い甲殻を纏い全身がトゲだらけで、見るからに凶暴そうな姿形をしている。鉤爪が肌に食い込む痛痒くて悍ましい感触に思わず叫びそうになるが、悲鳴が喉に張り付いて声にならない。
例えこの体が自分の物ではないにしろ、この身も凍る様な感触と屈辱的な思いは一生忘れる事はできないだろうと、琴乃の体を支配している何者かは真っ白な頭の隅でぼんやりと噛み締めていた。
「――心配しなくてもいい。その蟲たちは見た目と違い単に人懐こくてただ遊んでほしいだけよ」
琴乃は恐る恐る声のした方角に顔を向けると、いつの間にか幹を挟んだ反対側の枝の上に蟲使いの赤い女が冷ややかな笑みを浮かべて立っていた。
琴乃が何か言いかけようとした時、赤い女の瞳に妖しい光が宿る。
「――ただ今は仲間を何匹か殺されて気が立っているわ。へたに動かない事ね」
琴乃は青ざめた顔でその警告に小さく頷くと、
「は、話がしたい……私はお前の敵ではない、争う気など……」
と哀願したが、赤い女はそんな言葉は耳に届いてもいないと言うように冷ややかな笑みを浮かべている。
「……この蟲たちは私の合図一つでお尻の針をあなたに突き刺すわ。でも心配しないで、毒は持っていないから。――ただ針の中心の管から出るのは毒ではなくてこの子たちの糞よ。二百匹近い蟲たちが一斉にあなたの体に針を突き刺して体の中へ糞を流し込むの。そして血液に紛れ込んだ糞があなたの体中を駆け巡って、やがて毛穴と言う毛穴から青色の汗を流す様になる。あなたは体の芯から延々と滲み出てくる鼻を突き刺す臭いに狂いながら死んでいく事になるの……。いい? 私は会話をする気なんてない。あなたはただ私の質問に答えればいいだけ。この星へ何しに来た? そしてあの死体との関係は? ――さあ答えて」
赤い女は相変わらず氷の様な冷たい笑みを浮かべていたが、瞳には恍惚とした光が宿り、まるでこの状況を楽しんでいる様にも見えた。
琴乃は赤い女のその顔を見て、これは脅しでもなんでもない事を悟った。蟲使いを味方に付ける事が出来れば海賊を追うのに何か役立つかと考えたのだが、到底話し合いが出来る様な状況ではなかった。
呪われた種族と言われ、古くから一族の間では決して関わりを持ってはならないと忌み嫌ってきた蟲使い。
よもや絶滅したと言われていたその蟲使いに出会い、挙げ句にはこの様な屈辱まで受けようとは――
思い返せばつい先ほどは猫耳娘を相手に圧倒的な優位性を誇示していたのに、今ではまったく立場が逆転しまい、この弱肉強食の世界の皮肉さを嫌と言うほどに味合わされるとは。
しかもこの星に来てからは既に堪え難い屈辱を受けた身であった。しかもそれは信頼する部下の裏切りと言う最悪の行為によってだ。
琴乃の中に居る何者かの心の奥底で何かが弾ける様に吹き出した。
それは屈辱の連続で忘れ掛けていた自尊心と誇りだったのかもしれない。
「……全く、これだから旅はやめられない。特に辺境の旅は予想もしない出来事の連続で、まるで何が飛び出すかわからない宝箱みたいではないか! ああ、だからこそ私は広大な銀河を、この世界を旅することが好きなんだ!」
琴乃は高らかに笑った後で蟲使いの女を睨み付けると、
「――聞け、蟲使いの女! 話し合いは止めだ、気が変わった。貴様と会えた事も、この無礼千万な行為の数々も、旅の余興として水に流してやる……」
「なに……!?」
赤い女の顔色が変わる。この状況に於いて自信に満ちた言葉を吐く琴乃の心理を読み取ろうと目を細める。自信の根拠になる何かを警戒して自然と全身に力が入り、それに呼応するかの様に二人を取り囲むようにして周囲を旋回していた黒い蟲たちの動きも慌しくなる。
「――この体は貴様にくれてやる!」
琴乃はそう叫びながら蟲使いの女に向かって飛び掛かった。
その体が空中で金色の光に包まれて輪郭が二重にぼやけたかと思うと、まるで金色の輪郭が古い衣服を脱ぎ捨てたかのように、琴乃の体だけが赤い女の元へと飛んでいく。
赤い女は意識が無くぐったりとした琴乃の体を受け止めて、空中に浮かんだままでいる金色の光を見上げていた。
それは黄金色の光に包まれた少女だった。歳は13、4歳といったところか。しかも中世ヨーロッパの貴族を思わせるドレスに身を包み、長い髪を二つに結んで様々な形の髪飾りを付けた少女だった。
少女の全身は透けて見え、体を包む金色の光も強まったり弱まったりして、その度に少女の姿が見えたり消えたりを繰り返している。
「あなたは……?」
蟲使いの女は予想外の結果に言葉を詰まらせていた。
「最後に聞いておく。――貴様は海賊の仲間か?」
「海賊!? 私が? ふざけるな! 私は――」
蟲使いの女が素姓を明かそうとした時だった。
遠くから風を切り裂く甲高い音が聞こえてきたかと思うと、突如蟲で出来た壁を一筋の矢のように突き抜けて、二人の少女の眼前に全長30センチ程の円筒状の物体が姿を現したのだ。
それはこの緊迫した状況には余りにも不似合いで、間抜けとも思える光景だった。
「こけし……?」
蟲使いの女が呆然とした顔で呟いた時、目の前では更に信じられない光景が繰り広げられた。
二人の目の前でぷかぷかと浮かんでいたこけし人形の顔の部分がカタカタと回転し始めたかと思うと、おかっぱ頭の少女から鬼の形相へと変わり、それと同時に胸の一部が観音開きで開いて、突然金色に輝く少女の体を吸い込み始めたのだ。
ツインテールの少女の輪郭はへたくそなデッサン画の様に歪んで、短く籠った悲鳴が森の空に響き渡った。
そしてものの数秒と経たないうちに少女の体は奇妙に捻れながらまるでブラックホールに飲み込まれる様に、わずか30センチ足らずの木製のこけし人形の体内へと消えてしまう。
するとこけし人形は何事もなかった様に、現われた時と同じく物凄い勢いで飛び去ってしまい、その後を黒い蟲の集団が一斉に追いかけていく。
「……横取りされた? 私が? 誰の仕業か知らないけど上等じゃない。ただじゃおかないわよ」
蟲使いの女は、こけし人形が飛び去った先を睨み付けて吐き捨てる様に呟いた。




