七重星団
――Nに捧げる。
一群の星々が幾重にも堆く重なって夜の暗黒さを綺麗に輝かせれば、水平線の見える平原では玲瓏たる音楽が流麗に奏でられ、そのまま流星の一陣が虚空を切り裂いて空間に気だるい分裂を呼びこむだろう。天体の赤・橙・黄が一片の粉雪のように舞っていて時間の流れがふと感ぜられる。途切れ途切れに聞こえる闇のワルツ。永遠の音楽祭。嗚呼、消えていく物語を鼓膜で感じることができれば、がらんとした肉体の空白が海流の如くうねりに感じられる。淡い世界のなか恋愛のように過ぎていく時間は幻に似て、みたところ抽象名詞のように思えるのだけれども、それは螺旋にように複雑に渦を巻き過去から現代を媒にして未来へ向かっているのだ。それこそまさに彗星なんだろう。時間の彗星。彗星の時間。決まった枠組みのなか、星の運行は神の仕事だ。星が時間を遡って見せるめくるめく蜃気楼は柔らかい破壊性を帯びて、一閃光の刹那、すぐに瓦解すれば、乖離した月の光も、原初の雲も、全てはひとつの点から始まったんだ、と憶え、冷えた空気を深呼吸をすれば、一つ一つの肺胞に静かに酸素が染み込んでゆく。だから星は奇跡なんだと僕は思う。奇跡のように耀いている星。――ところで流星は射幸心の意味を持っているとフランスの詩人が言っていた。無重力圏を漂う流星はやっぱり一人で怖いんだと僕は思う。一人ぼっちで墜ちていっていずれ燃えてなくなってしまうんだから。でも、流星はそれでも宇宙の歌に乗って流れていく。翅を拡げて神々の坩堝に混淆されることなく翔んで行くんだ。さよならも言わずに。だから流星は苦しんでいる人々の苦しみを吸い取って、どうか幸せに、と祈りを込めて飛翔していく。穏やかな夜、僕たちは眠っている。そのあいだ、流星は皆の苦痛を消してくれるんだ、と。そして厖大な苦しみを抱えて大気圏で畢っていく。流星は宙からの贈り物なんだ、と。僕は流星の一条の筋を彼方に臨みながらそんなことを考えていた。
遠くに葡萄園が見える。薄い暗澹のなか、濃密な紫色が網膜の中で映えている。荘厳なる死者の国として目に映ったが、邪悪さや醜悪さは感じられなかった。そのとき夜も更けて昏いにもかかわらず葡萄園の光景が鮮やかに見えたことに何の不思議もなかった。銀河に鏤められた星の光を受けて、葡萄の活き活きした葉脈までしっかり観察できる。小さくてかわいい枝、花弁、萼が風に揺れて漾っている。僕が近くまで訪れると葡萄の白い花はわずかに雨に濡れていて、湿った雄蕊と雌蕊は幾雫か垂れて、そのちっちゃな存在を世界に示した。環境に即して全身全霊で生長する葡萄の果実は柔らかい膨らみを有していかにも美味しそうに見える。僕は一口食べてみることにする。ひとつの実を捩じって房から切り離し、それを口に運んだ。舌で転がして皮を唾液で濡らし、味わって咀嚼する。――美味しい! 豊満な甘さが口腔内に拡がって十二分に美味しかった。葡萄の樹は鳴動し、音を響かせて、どうだと言わんばかりにざわついた。葡萄の木全体を見ると、全ての枝に葉や花が茂っているわけではなく、まだ時期尚早なのか、実をつけているものは少なかった。でも、きっとまだ実っていない夭い葡萄たちはいつか立派な胤を残してたわわな実をつけるだろう。そして時がくれば次世代の葡萄たちはまたこのような透き通った夜の大気で、満点の星に祝福されるのだ。連続して生きることに意味を持つのだ。僕はそれがひどく嬉しかった。星天井に包まれて生きていける葡萄たちが。育っていける適切な環境が。気がつけば僕の目から一掬の涙が流れていた。僕は涙を止めることをしなかったし、止めたくもなかった。禁じられた遊びのように僕の顔面の筋肉はゆったり弛緩し、緊張の解けた僕はにっこりと破顔した。
まん丸のお月さまは僕を照らし、僕の影が幽かな光のなかで長く曳いている。月は幾万の星と区別され聖らかなものの象徴として過去数千年間愛でられてきた。歌にも詠まれてきたし、たとえ戯詩だとしても月はその形と意味をもって現存してきた。月は美しい! たったそれだけの真実を修飾して僕たちは生きてきた。また、どれだけ真実めいた嘘をついてもお月さまにはバレてしまう、と言われるほど月華は誠実かつ節操を孕んで咲いている。月はやっぱり神聖なものなんだろう、と考えながらさきほどから僕は月とにらめっこしている。つるつるしたのっぺらぼうの月にはクレーターという凹みがあるけれど、それでも地球からは美しい滑らかな黄色い円環に見える。そうだ、月は地球上には存在しないんだ、と理解したのは月を凝視して二、三分経ったときだった。なんだか月が夢幻のように思われて、切なくなった。宇宙空間を通った青白い円光が宙空を辿り、僕に至る。その事柄はかなり神々しい現象だと思ったので、僕も月になにか返さないといけないと思い、流行歌を象った口笛を吹くと、残念ながら月は曇ってしまった。僕の返事が気に入らなかったんだろうか。そのことは単純に悲しいけれど、僕の鼓動が爆発するみたいに楽しそうに弾んでいた。宙に浮遊する月よ。僕を食べてくれないか! この矮小で短矩なこの僕を、心の奥に不眠症を飼っているこの僕を。きっと月に食べられることは心地のいいことなんだと思う。セックスなんて比べようのないほどの快感なんだ、きっと。日光浴ならぬ月光浴。僕は胸に手を当てて月に祈った。――そのとき月の輪郭がぼやけて、月が気体に鎔けて僕の器官の内側に這入ってきた。その浸蝕力は強く、繊毛にまでびっしり搦みついて離れない。月が僕を食んでいるんだと直感して、僕は身を任せて、月に凭れかけた。死の瞬間を感じ、それから永遠に近い時間を漂流した。僕は月に埋葬された。前世と来世を経巡り、幻想的な世界を幾度も周遊した。意識を取り戻したのは二時間ほど経ったあとだった。まだ僕が感じた細胞単位の刺戟は脳を駈け巡っていて、血潮が漲って収まることを知らなかった。
山峡から狼煙が上がったので、誰か人が住んでいるんだなと思った。時計が要らぬ天然の時間感覚で生きている邑なんだろうか。原始の狩猟採集が生活を支え、電気など必要のない生活は僕の憧れている風景のひとつだ。いや、この平原だって自然のまま育ってきた環境だ。古代の鳥獣虫魚が生きているこの美しい景色を見ながら今ここにいるのだ、と実感すれば僕の脳内でいろんな神経伝達物質が湧出して独特の感覚に身が溺れた。筋肉が弾み、雑音が遠退いた。まだ動悸の余韻が残っている。心臓が破裂しそうだ。無辜の自然に埋没していく意識のまま、峰々を遠くに眺めて、僕は一瞬の点となる。闇夜にぽつんと存在するたったひとつの点。幾億の星団のなかのたった一つの赤星と同じ存在価値になって、僕は僕という概念そのものに変身して、魂が体から抜けて空を駆けた。馬になって、虎になって、龍になって、地球を睥睨しながら、星光と同じく大気中に放射される。散乱した自尊心も分散した虚栄心ももうなくなって、風景の一つとして僕は漂った。大気と光と水に融滌される気持ちは「嬉しい」だった。光彩として星として生きていこう。僕の意識はそう思って溪に落下していった。いずれ巨海に流れていくだろう。蒸発して雲になってまた流れる。その繰り返し、繰り返し。それこそ星になるということ。自然と融合すること。花鳥風月そのものになるということ。有象無象、森羅万象、その全てになりうるのだ。――それは僕が僕でなくなることだけど、それでいいのかな、と改めて考えてみる。気がつけば、陵を、稜線を、水平線を、葡萄畑を、満天の星空を、そしてたった今、ここにいることを、噛みしめて、僕は呼吸を、していた。僕は人間の姿で呼吸をしていた。僕は僕というたった一人の人間だった!
もう夜の時間は終わりだ。場を支配していた宵闇は淪み、じきに朝が来る。このぼんやりとした朝と夜の界いはいずれ見えなくなって夜露だって涸れてしまう。全ゆる物は朝焼けに灼けてしまって、熱を抱いて動き出す。自然の摂理として、陽光が這い出てくる。無差別に陽の光が蔓延するだろう。いわずもがな天を蔽う星雲や月も太陽光に負けてしまって消えてしまう。星空の一時的な終焉。それは仕方ないことだ。しかし僕はこれほどの美しさの空はもう見えないと思ったのだ。光が窒息するほど蝟集し収斂する景色はもう見えないんだと感じた。だから、だからこそ、僕は自分の胸にこの景色を残そうと思う。天国に向かう産道のような、神話の入り口のようなこの景色を。六連星が凛と耀いている。結局僕たちは人間として生きていかねばならない。そうやって人は星を心の拠にして生きてきたんだと思う。永遠の微睡みに浸ることはできないのだ。星の数ほど未来はあるというけれど、それはその通りで、星一つ一つに人の未来が込められているんだ! どれだけの矮星でも星屑でも、祈りや願いが込められているんだ。人として生きている限りは、星を拝む。そしてその願いや祈りが星をますます輝かせているんだ。天を仰いで手を伸ばして、せいいっぱい背伸びをしても、それでも星に届くことはないけれど銀河の隅っこで人間は星ではなく「人間」として生きているんだ。そう思って僕は長い散歩を終えようとひとり嬉しく家路に就くことにした。そのとき体が急激に顫えた。なんだろう、と思ったけれど、歩いているうちにだんだんそれが何だったのかが理解できた。たった今きっと渺々たる宇宙のどこかで星が生まれたんだ、スーパーノヴァだ! 僕はそう直感して静かに平原を立ち去った。