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あの日の快晴が嘘のように、最近はずっと空の機嫌が悪い。
フェリシアの機嫌も大変悪い。何故だかは自分でもよく分からないが、とにかくいらいらするのだ。
思い当たる原因はきっと。
『嫌いなのだ』
冷たく言い放った一言。
カーティスという少年は、ナイフで抉られたような悲惨な表情を浮かべた。その後カーティスは去って行ったが、あの寂しそうな背中が忘れられない。
本当の所を言うと、「始め」は傷つけるつもりはまったくなかった。ただあのとき。あのときに限って左眼が猛烈に疼いた。まるで歩み寄ったフェリシアを止めるかのように。
左眼の眼痛で意識が遠のく瞬間、フェリシアの脳裏にあるものが走馬灯のように駆け巡ったのだ。
白銀が白銀以外の色に染まる。いや、染められていく。
それをただ眺めているしかない、無力な自分。大切で、この世で最も大切で離れたくなくて、愛していたものがあっけなく崩れる怖さ。
抵抗する力はお互い残っていない。残っていたとしても無効化される。何故なら、相手は我らよりも強いから。ねじ伏せられる力があるから。
我らを消すのはそいつだが、事の発端は別のところにある。
人間だ。
そいつは悔しいほど上手くしくみを作っていて、そいつを恨もうにも恨めない。だから我らは我らよりも弱い人間にしか怒りを向けることが出来なかった。
我らは別に人間を殺したいほど憎んでいたわけではなかった。しかし人間はあろうことか我らを敵視し、武器を持って森に入ってこようとする。
我らはそれを阻止したかった。平穏な生活を守りたかっただけなのだ。
我らは二つで一つ。しかしその片割れは、掟を破った罪に問われ、白銀を奪われてしまった。
恨むべくは人間。
ずっと胸に人間への憎悪の炎を鋭く燃やしながら生きてきた。
意識を取り戻したとき、傍にいたのは人間だった。
私たちを引き裂いた原因の、諸悪の根源の人間!
心の底から憎いと思い続けてきた人間。眠っていた本能のようなものが私に制御を施した。「これ以上、関わるな」と。
ほんの気まぐれで、少年の探し物を見つけてやってから始まったささやかな関わり。初めこそはつっけんどんだったが、どんどんと心が隔てていた壁を溶かしていくようで。でもそうではなかったのだ。
彼もまた私を孤独に突き落とした人間。我が種族と交わりを持ってはならないもの。
ずっと共に生きよう、と誓った私たちの愛を踏みにじったもの。
だから蹴った。『嫌いなのだ』と。私とお前は一生かかわることは出来ないという本能のささやきから。
これでよかったのだ。これで。
しかし心の片隅に何かが引っかかる。本当にこれでよかったのかと。
あの少年は、私を孤独から救い出してくれる存在になったはず。あいつの代わりにはならないだろうが、一緒に語り合える存在になったかもしれない。
そう考えてしまう自分はどれだけぬくもりに飢えているのだろうと思う。人間が嫌いなくせに、人間が去ってしまえば寂しいと感じる。去らないでくれ、私の傍にいてほしい、とまで思う。
馬鹿馬鹿しい矛盾だ。
馬鹿馬鹿しいが、自問自答を繰り返してしまう愚かな自分は消せない。
『矛』をとるのか『盾』をとるのか、と。どちらを選べば良いのだろうと。
今までの感情からならば、迷わず人間は敵だと答える。勿論今でもそう思っている。
しかしその一点しかない凪いだ海に、大岩が飛び込んできたせいでどうすればいいのか分からない。元の凪いだ海に戻す方法が皆目分からないのだ。
人間が敵か、否か。
それは天秤に均等に釣り合っている。だからどちらかに小石の欠片でも乗って少しでも傾げば、決まってしまいそうなくらい、どちらも想いも捨てることはできない。
私はあの少年がどうしてくれれば、満足するのだろう。天秤に小石が乗るのだろう。
こういうときに、あいつがいてくれれば。
と考えるが、それはおかしいと自分で自分の頭を殴りたくなる。
だってあいつがいたら、あいつ一筋なわけで。今はあいつがいないから、人間を受け入れるべきか、否か迷い悩んでいるのだ。
「……どうすればよいのだ……。どうすれば……」
声に出してみたが、何がどう矛盾なのかが分からない矛盾は解けるはずもなかった。
***
雪はまだ降り続いていた。窓からだけで分かる寒さは、部屋の中にも入り込んでくる。
火を焚き、上着を重ねるが、自然の厳寒には完全には打ち勝てそうもない。
最近は屋敷中が何となくピリピリしている。
原因は次兄・スタンレーの軍学校受験だ。
この寒さと雪で、いまいち乗馬や剣の練習が上手くいかないのでスタンレーは苛立ち気味。それが屋敷の執事や侍女に伝染してしまっているのだろう、とカーティスは推測する。
スタンレー兄さまは確かに頭がよく切れるけど、ちょっと短気なところが玉に瑕なんだよね。
というのは長年共に(といってもあまり顔を合わすことはないが)この屋敷で過ごしてきた弟としての評である。
読んでいた政治・経済の本から顔を上げると、小窓のサッシに雪が積もっているのが見えた。そのたびに、繊細の心のカーティスの顔が曇る。「白銀」はあの不思議な少女を思いださせるからである。ついでにその少女にはっきりと「嫌いだ」と言われたことも思い出す。
「僕、フェリシアに何かしたっけなぁ……」
過去の自分の素行を手繰り寄せてみるが、それらしき害のある行動はない。……と思う。
「嫌いだ」と言われた日は憤ったが、冷静になった今は何故かあのシニカルな少女に逢いたくてたまらない。
あんな態度を受けておいても嫌いになれないなんて。我ながら実に不思議である。
あの森にもう一度行ってもいいのだろうか。もう一度フェリシアと話してもいいのだろうか。
悶々と考えを広げてみるが、はっきりとした答えは見つからず曖昧だ。
自分の気持ちに正直になれば、逢いたい。けれども、別れが最悪だっただけにどうしたものか。
こればっかりは、どの教科書にも書いていない。
「カーティスさま。お客さまがお見えになりましたが、いかがいたしましょう」
カーティスの自室のドアを叩く音が、彼を現実に引き戻した。
客? そんなの聞いてないけど。と少々うんざりしたが、
もしかして、フェリシアか!?
確証はないが、そんな思いつきがカーティスの胸を駆け巡る。カーティスは小躍りしそうになったが、必死でそれを食い止めながら、ドアを開けた。それからドアの叩いた侍女と共に客人の待つ玄関へ向かった。
待っていた客人は、残念ながらカーティスの思惑とは違った。
「カーティス―――!」
思い切り飛びついてきたのは、
「ティファニーじゃないか」
従兄妹の巻き髪少女である。後ろには当たり前の女性教育係・ブライスが控えている。
「どうしたんだい?」
カーティスが訊くと、巻き髪少女より早くブライスが反応した。ずれてもいない黒縁メガネを、くいっと押し上げながら、
「申し訳ありません。ティファニーお嬢さまがどうしてもこちらに遊びに来たい、とききませんので。スタンレー様のお邪魔になるから、とお咎めしたのですが」
例え怒っていても申し訳なさを感じていても、表情と声は淡々としているのがブライスの特徴だ。内心、ひやひやしていることだろう。
そんな教育係の苦労を知ってか知らずか、色んな意味で幸せな巻き髪少女がニコニコと太陽のような笑みを放っている。
カーティスの誤解(正しくはティファニーの誤解していただけだが)が解けたあの日から、ティファニーは更に人懐っこくなった。
ティファニーは可愛いのでそれでいいのだが、場所問わず抱き着くのはいかがなものかと思う。
とはいえ煩わしいわけではないので、小さな巻き髪少女を抱き上げてやる。
ティファニーは微笑んで、カーティスの首に小さな腕をまわす。柔らかく華奢な身体からは、花のような芳香が漂う。絹のような栗色の髪が顔に触れる。くすぐったいが心地よい。
「ねぇカーティス。ティファニーご本が読みたいの。このお屋敷の図書室は、ティファニーのお屋敷の図書室よりうんと大きいんでしょ? ティファニー、見てみたい!」
カーティスの腕で、キャッキャとはしゃぎ出すティファニーにブライスは「連れて帰るのは無理」と判断したらしく、きっちり一礼してカーティスにティファニーを委ねた。
「申し訳ありませんが、カーティス様。お嬢さまをよろしくお願い致します」
分かりました。とカーティスは了解して巻き髪少女を下ろした。
ニコッと微笑んだ巻き髪少女とカーティスは手を繋ぐ。そのまま二人は図書室へ向かった。
そのときかすかに開いていた玄関から、白銀の雪が入り込んだ。ブライスの閉めが甘かったのだろう。
気づいたブライスが慌てて閉めたが、閉めたときの風の影響で、雪は玄関の隅に移動した。
しばらく冷気を辺りに放っていたが、やがて力尽きて溶けた。
指先冷たい……。
一日中暇を持て余していた露草です。
「葛藤」というテーマのもとフェリシアはさんざん悩んでいます。
何でちゃっちゃとはっきりしないの? とうんざりな方もいらっしゃるかもしれませんが、これがフェリシアであります。
今はまだお互い気持ちが上手く通じ合っていませんが、いずれ……!!
ティファニーとブライスが書けて、非常に満足している露草でした。