1-3
木々が今日はやけにざわつくな。
ああ、そうか。今日は何故か吹雪が強いのだ。
濃蒼色の瞳の少女―――フェリシアは生まれ育った森に戻ってきた。長い白銀のさらさらと風に靡かせながら。
いつものように雪の上に座り込もうとする。すると急に左眼に激痛が走った。
左眼を押さえて蹲る。心臓がドクンドクン、と強く激しく脈を打っているのが分かる。
しばらく激痛に耐えていると、少しずつ痛みが緩和されてきた。フェリシアは立ち上がり、傍の木に凭れかかった。
その衝撃で、枝に引っかかっていた雪たちが髪の上に舞い落ちてきた。
フェリシアは冷たさというものには強く対して気にはならないが、そっと頭の上のものを払いのけた。
「あいつ」がいなくなったのも、こんな風に白銀が美しく映えている日のことだったな。
「はやく姿を、無事な姿を……。私はお前に逢うまで死なぬ。死ぬことはできぬ。何故なら『白銀』を失ってまで、私を護ってくれたのだからな……」
白銀の髪の少女は、今なお雪を生み出している空を仰ぐ。弱々しく手を伸ばしたが虚空を掻くばかり。
フェリシアの「右頬」には、透明な涙が伝っていた。
―――神よ。我らを創りし神よ。どうか、もう一度あいつに。あの荘厳な姿に。
「もどらせてくれ……」
***
カーティスはその日も、勉学に励んでいた。
政治に経済、物理に科学に数学に至るまでありとあらゆる分野の知識を頭に柔軟に叩き込む。
カーティスには既に2人の兄がいる。しかもどちらも屈強な父に似て頑丈な体躯をしている。長男か、長男が不幸なことになれば次男か。どちらにせよ、カーティスが跡継ぎという可能性は低い。
次兄は、長兄がエアルドレッド伯爵となった暁には、国王陛下直属の軍隊に入隊するつもりらしい。貴族の子弟は、よっぽど無能ではない限り、尉官や佐官以上の上級将校の地位が約束されている。
要するに軍か学か、どちらかで身を立てていくのだ。
そして三男であるカーティスは後者を選ぶつもりでいる。兄たちのように力がないことはもう十分分かりきっているし、何より軍人というものが苦手なのだ。
兵器を使いこなせる自信も、傷つき流す血を無心で眺めていられる自信もない。誰かの命を奪うということはどうしてもやりたくない。そして「祖国のためだ、国王のためだ」という覚悟も恐らく出来ない。陛下の御尊顔は肖像程度で、直に拝見したこともないのに、尊い命など捧げられるものか。口に出せば貴族社会から煙たがられてしまうだろう。だから漏らしはしないが、軍人、軍役などはごめんだ。
次兄は過去の軍書を読んで、心が勇み震えたという。だがそれは実戦に出ていないからだ、とカーティスは思っている。大きな砲弾や破裂音が飛び交い、冷静にいられる人間がいるものか。「勇み震える」は「恐れ慄く」に変化していくに違いない。
「戦争や恨みごとがない世界に変えられる人になりたい」それがカーティス心からの願いで、夢だ。だから色々な方向から物事を捉えることを可能にするために、膨大な知識を身に付けているのだ。貴族だからって優遇されたくない、実力で未来を切り拓きたい。
「戦争のない世界」……綺麗ごとなのも分かっている。この世には何万という膨大な数の人々がいる。その何万が1つの考えにまとまるなどあり得ない。違う思いや意見を持っていて当然だが、それが諍いになり、国単位の戦争に発展していくのを食い止めることが出来たら……。命を捨てて国を護るより、話し合いや外交で国を護るほうが何倍も格好いいに決まってる。カーティスはそう確信していた。
外国の読解不能の書物は、それぞれの教科の教師に訳してもらう。それは教師もカーティスも難儀したが、得られるものは少なくない。
今日の分の勉強が済むと、もう日が落ちようとしていた。ぶっ通しで4時間弱机に向かっていたということになる。毎日フラフラになるが、確かな手応えは日々感じている。
頭が疲れて痛くなってきたので、カーティスは自室の寝台に倒れこんだ。夕日が放つ淡い橙が優しく癒してくれる。
少し睡眠を取ろう、とウトウトしている状態のとき、扉を叩く音が聞こえた。
はい、と返事をして寝台から起き上がると、遠慮がちに扉が開いた。
「ジュリアナよ。……お時間はあるかしら?」
金色の髪を見事に結い上げたジュリアナだった。
「ごめんなさい。お疲れのところを邪魔してしまって」
カーティスの自室に入り、扉をまた遠慮がちに静かに閉めた。
この姉は、たとえ相手が弟であっても丁寧な態度と言葉づかいをする。もともと斟酌をする人物ではあるのだが。
「いいえ、邪魔ではありませんよ。それより姉さま、どうなされたんですか?」
しつこいようだが、確かジュリアナも今ダンスのレッスンに忙殺されているはずだ。そのジュリアナがわざわざ弟の自室を訪れるなど、何かあったのか。
「ええ……。もしかしたら私の勘違いかもしれないのだけど。……最近貴方に元気がないように見えて。それで、心配になったの」
ジュリアナは長い睫毛で目を伏せながら、手近にあった椅子に腰かけた。カーティスも向かい合わせになる体で椅子に座る。
「私の見間違いだったらごめんなさい。でも普段元気なカーティスがつらそうなのは、私もつらくて。もし、話せることなのだったら、私に話してほしいなって」
ジュリアナはよくこの弟・カーティスのことを見ているようだ。自分でも出していないと思っていた細やかな感情の変化を感じ取れるとは。
「元気がない」思い当たるのは……。
人間離れした少女・フェリシアのことだ。
カーティスはあのとき―――森で、フェリシアの手をとったとき―――フェリシアから受け入れられたと思っていた。それが2回も鼻であしらわれ、挙句の果て「信用ならぬ」と言って走り去ってしまわれては、傷つく。誰であっても。……と思う。
しかしそれを他人に言うのは憚られた。何故か、とは言い表しにくいが、とにかく誰にも彼女の存在を広めたくなかった。
カーティスは出来るだけ明るい表情になるように努めて答えた。
「大丈夫です。僕には何の心配も悩みもありませんよ。ただ強いて挙げるなら、『童顔』からおさらばしたいものですね」
『童顔』。これはカーティスのコンプレックスのひとつだ。
ジュリアナは、ぷっと吹き出すと手で口元を押さえた。それすらの動作でさえ、優雅で気品が漂う。
「そう。なら良かった。だーいじょうぶ。童顔なら時間が立てば何とかなるわよ。父さまも母さまもお綺麗な方でいらっしゃるしね」
ジュリアナは最後に弟を抱きしめる。抱きしめる腕はカーティスと変わらないか、カーティスより細い。カーティスも姉の背中に腕を回した。姉の滑らかな金髪が顔にかかって少々むず痒かった。
***
そのころフェリシアはまた、左眼の眼痛に苦しめられていた。
最近どうも激痛の頻度が増え、間隔も短くなってきている。
しかし薬はない。だから黙って耐えているしかない。
痛みの最中には、脳裏に何かが浮かび上がってくる。何かの、断片のような。
ほどなくして痛みが落ち着いてくると、フェリシアは目をそっと閉じた。途端世界は真っ暗な何もない世界へと切り替わる。
いつまで、私は。
「孤独でいればよいのだ……。これも掟を破った罰なのか……?」
目を開ける。見ると、一度止んでいた雪が、再び降り出した。フェリシアにとって雪ほど心地よいものはない。
木々に凭れると、雪がフェリシアの全身にかかり、やがて自然と敷布のようになる。
そういえば、あの数日前に出会った少年。変におせっかいなヤツだったな。……私とは違う、きっと常に誰かに囲まれて過ごしているのだろう。私のことなど、とうに忘れて。
自分から蹴ったくせに、何だか寂しくなってきて。フェリシアはぶんぶんと頭を振る。乗っていた雪はハラハラと舞い落ちて、地面の雪と同化して分からなくなる。
陽と月が交代した。これからは漆黒の闇が広がっていく。
フェリシアは激痛に襲われた疲れのせいか、痛みから解放された安堵のせいか、目を閉じるとすぐに意識を手放した。
そもそも私は今までずっとひとりぼっちだったではないか。その私が『寂しい』という感情を持つわけがないのだ―――……。
『 ―――生きろ。生き続けるのだ。我の分身よ。誇りを失わなければ、いずれきっと…… 』
嗚呼、そんな日は、果たして訪れるのだろうか―――……?